『アリスのままで』について書きます。
『2001年宇宙の旅』で宇宙船を人工知能のHALに乗っ取られた船長がコントロールを取り戻すためにHALのメモリユニットを抜き出してゆくとやがてHALは停止する。
ありていに言えば『アリスのままで』はそんな感じの映画だ。『明日の記憶』 (2006) や『私の頭の中の消しゴム』 (2004) などの、いわゆる難病物とは違う感触だ。これは著者も科学者だからだろう。シミュレーションのような展開をしている。そして “知” を職業をしている者の恐怖も描いている。
『博士と彼女のセオリー』(2014) でホーキング博士がいわゆるルー・ゲーリック病を医師から宣告されたときホーキングが訊いたのは「脳はどうなりますか?」だった。また、『イミテーション・ゲーム』 (2014) のチューリングは懲役の代わりにホルモン治療を受け入れ結果として知性を無くしてしまい自殺する。 “知” に生きる者たちの恐怖と絶望を描いていた。『アリスのままで』のアリスもその恐怖に襲われている。「自分でいられる」というセリフがその象徴になっている。メモリ(記憶)が自分を構成していると考えているわけだ。
だからこそ、「自分がいなくなる」瞬間に自殺を計画する(映画のチューリングと同じ考え)のだが、その瞬間をひょんなことから失敗してしまい、まさにメモリをすべて抜かれたHALと同じ “存在” になってしまうのだが……
面白いのは機能を停止した人工知能のHALと人の脳であるアリスと違い最後に「何が残ったのか」を描いたところだ。「アリスのメモリが消えたら、アリスは機能を停止したのか?」
実はブログ主はこの映画を最後まで “普通の映画” としてみていた。「お涙頂戴じゃないだけ、まだましか」だと。しかし、エンドロールで「してやられた」
原題の『STILL ALICE』が最初はボケた表示だが、しだいにクリアになってゆくこの意味は「メモリがノイズなのだ」といっているのだ。正確には「メモリにはノイズがついてくる」だろうが。
もちろんこれはフィクションでフィクションらしく “やさしい” 結末が用意されている。現実には映画のような結末になるのはそう多くないのかもしれない。
それでも「自分らしさ」とは何なのかを考えされられた。
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