えいざつき ~映画と世情と日常と~

何かの感想というよりも、それで思い出した事を書きます。映画、SFが多めです。そして、たまに妄想が暴走します。

ネタバレ:『天空の蜂』を映画と原作を比べてみた

注:ここでは『天空の蜂』の映画と原作のネタバレがあります。[加筆有]

『天空の蜂』を観てきました。

   

『天空の蜂』は映画としては傷が多い --これは後で書きます。-- がラストシーン前のメッセージで “絶句” したので、ブログ主にはあまり批判できない作品になってしまいました。そこで、それを確かめるために原作を購入して映画と比べてみました。

 大きな変更は二点。


A: ビッグBに乗るのは湯原の息子(高彦)ではない。
原作では湯原の同僚である山下の息子(恵太)がビッグBに乗り込む。映画での湯原の「結婚間違えた」考えは原作では山下の迷いになっている。 ちなみに映画での救出のアイディアをだしたのは三島だが原作では自衛隊になっている。

B:雑賀と関根は死なない。
映画では室伏と関根と警務隊は雑賀のアジトへ突入された際に逃げ切れなくなった雑賀と追い詰めた関根そこで死ぬが原作だと新陽に落ちるビッグBを見届けるために立石岬にやって来た雑賀に室伏と関根が追い詰めて終了になっている。

AとBの変更はどうして行われたのか?

実は原作では首謀者は最初からわかるが、映画でそれが分かるのは中盤になってから。つまり「真相とおもっていたら違っていた」形式のミステリーとしての意外性を映画としての “押し” と使っている。『めまい』 (1958) で有名な展開だし、最近だと『ゴーン・ガール』 (2014) が使っている手法だ。そんな手法を使う映画にハッピーエンド&バッドエンドはない。カタルシスを避ける、いやゆるグレーエンドというべき終わりなのだ。

思うに映画と原作のこのような違いになったのは「この映画はエンタメである」を優先させているのももちろんあるが、もっともの理由はラストシーン前に描写されていた首謀者のメッセージを強烈に「印象付ける」ためだろう。原作の発表当時ならともかく東日本大震災を経験した現在では感覚が違っているからだ。


『天空の蜂』は映画としては傷がありすぎるのは「音楽の使い方がヘタすぎる」「説明セリフが多すぎる」 の大きな二点で前者が無理矢理盛り上げてる感がありすぎるし、後者はサスペンスミステリージャンルの避けられない問題としてある程度は許すとしても、感情までも “そのまま” セリフにするのはどうかと。それに「とどけー!」とかの叫び声は形を変えた説明セリフでもある。ようするに安易だ。


ちなみに「ビッグBが『新陽』の隔壁を突破できるのか」問題は映画でも原作でもそれなりに説明されているが、実はそれほど大した問題ではない! 同じく「空中で撃墜すればいいんじゃないの」問題解決も意味が無い!ビッグBを『新陽』落とすアイディアはミステリーでいう所の目くらましだからだ。映画でも原作でも首謀者は成功を願ってはいるが、それはこの事件で「事の本質に気が付いてほしい」とあがき、願っているから。

だから「原発が無いとどうなるか?」を国民に “体感” させるために首謀者は国家の茶番をあえて乗ったのだ。

本質は燃料プールだからだ。

使用済み核燃料 - Wikipedia 

日本では高放射性物質の使用済み核燃料を「どうするか」を現在まで解決できてはいない。廃棄の道すじさえも無い状態で映画でも原作でも出た六ヶ所村に再処理施設はまだ稼動していないから、使用済み核燃料はプールで増え続けている。そして原発は稼動している。

文字どおり、快適を優先してつけを後回ししている。


正直にいえばあのぬるいラストシーンとピンとこない主題歌は自分にはちょっとした救いになった。絶句した気持ちを整理できたからだ。結論から言えば、この映画と原作の表現としての方向性は同じだ。つまり『天空の蜂』は原発批判の社会派サスペンスではなく、ディスカションの映画だからだ。観ている人に「どうするのか?」と問いかけているからだ。



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