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えいざつき ~映画と世情と日常と~

主に映画の思い出について書きますが。基本は自分の思った事をつまり妄言を書きます。

<書評>原田曜平 著『新・オタク経済学』の感想文

書評 駄文
ここでは題名を恣意的に表記します。[敬称略]





もちろんブログ主もオタクである。そしてオタクはその手の知識をどれだけ有しているかがその純度を高めてゆく指標になる、いわゆるガチの概念がそうだが、最近のオタクはそうゆうものを求めない傾向があるらしい。いわゆる「オタク・イズ・デッド」の考えだ。「それは単に〇〇〇ファンというのでは無いのか?」とも思えるのだけれど、それがどうしてオタクになるのかがピンとこなでいた。多分、「本来は反逆の象徴であるフォークやロックが一般化して消費される側になった」みたいな構図かもしれないと漠然と考えていたが、これを読んである気づきを得た。つまり……

現在のオタクは、かつてオタクがしてきた修行ではなくコミュニケーションをしている。そしてそれで自在に一種のネットワークを構成して解体もできる。まさに「オタクという名の大勢」なレギオン的な存在になっている。

  今の人には信じられないだろうが、束の間だけど、かつてサブカルとオタクは親和的な関係があった。というよりもまだカテゴライズが成立していなくてオタクみたいな視点がひとつの「知的なリーダー」としてそれなりに評価されていた。ところが80年代に「根アカと根クラ」のワードが誕生して、さらに中森昭夫 著『『おたく』の研究』が発売されると「知的なリーダー」は「オタク」にカテゴライズされて、それが1989年の連続幼女誘拐殺人事件でオタクへの印象が劇的に変化した。簡単にいうと「アニメや特撮には詳しいけど人付き合いが出来ない人たち」のイメージがここでほぼ完成されたといってもよい。

世間の風評という荒波に耐えるためにオタクはオタクどおしで同人誌、学校のサークル、雑誌等々のコミュニティを自然につくって、もちろん流動性はあるが、大筋はそこを中心に活動してゆく、それを裏から支えたのはパソコン通信から始まるネット環境だ。おそらく30代以前のオタクはそんな体験をしている。ブログ主のいう修行はその中でオタクひとりひとりが知識を得て高めてゆく行為を指している。技量を高めたり、知らない知識を開陳したり、新たな視点を提示するのがそれだ。

電車男』のオタクもおそらくそのイメージで構成されている。ネット掲示板からの展開は信憑性はともかく「オタクの人の子」が認識されて以前のオタク観はここでリセットされて再起動をする。本書でのリア充オタクの概念への道筋ができたともいえるかもしれない。


さて、本題。かつてのオタクからみればリア充オタクはヌルオタにしか見えないだろうが、彼らは彼らなりの考え方でヌルオタとエセオタを見分けているから、本書のとおりオタクは「情報」より「対象への愛」 へと変化したのは確かだ。

しかし、それが「オタク・イズ・デッド」とは思えない。本書の主題は「オタクで儲かる方法」で、そのためにSNSやアプリでのビジネスなどを提案しているが、それが暗にある事を示している。

オタクは存在証明からクラウド化した。がブログ主の見立てだ。

何しろ今やネットでプロとリンクできる時代だ、情報を集約させようと思えば出来ない事はない、情報をうまく集約できるかどうかがガチオタの手腕に変化したとも言える。何しろそれができないイラストは今でも修行の成果が評価されているのだから。

それが古参のオタクとリア充オタクの橋渡しになっている。だからこれからオタクにもキュレーターの手腕が必要になる。

まあ現実はそんなにきれいに向かうとは思ってはいない。しかし初音ミクの例もあるし漠然とだけどコンテンツでもアプリでもいいけどオタクはその都度プラットホームしだいで「その場、その場」に現われてくるのだろう。



 
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