えいざつき ~映画と世情と日常と~

何かの感想というよりも、それで思い出した事を書きます。映画、SFが多めです。そして、たまに妄想が暴走します。

『スリー・ビルボード』のネタバレスレスレの飛躍した感想

ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]

 

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www.foxmovies-jp.com

 

アメリカ・ミーズリ州の架空の町を舞台にしたドラマ。レイプ殺人事件で娘を失った主婦ミルドレットは今だに犯人が逮捕できない警察に業を煮やして街道に三つの巨大な広告看板を設置する。それをきっかけに警察と地元の住人に軋轢が生まれ、それがやがては意外な方向へと展開してゆく。

 

 それらしきフリもないので、いささか飛躍した考えだが、『スリー・ビルボード』は三つの広告ということでキリスト教神学の三位一体、簡単に言うと神を連想してしまうところがあり、これは真理の探究と「赦し」がテーマではないのかと勘ぐってしまうところだ。ここで言う「赦し」は過去を水に流す。の意味ではなく、それを受け入れてこれからの糧とする。意味での「赦し」だ。

 

この映画ではいわゆるステレオタイプの人間は一人も出てこない。だから普通のサスペンスやヒューマンドラマの感覚で観てゆくと裏切られる。このドラマ(真理の探究)の「赦し」の落としどころがどこにあるかといえばそれは真犯人に対するものではなくて、ある二人の人物が抱いている持って行きのない憤りの感情としての「罪」であり、だから「赦し」が必要だと説いている。もっと雑にいえば、あの二人の「魂の救済」をメインに描いている。そうでなければラストシーンの「腑に落ちた」感は説明ができない。あのラストシーンには希望もないが憤りも感じられないからだ。

 

そして、この映画は「善き人」のドラマでもある。中盤でウィロビー署長がミルドレットにある秘密を告白するシーンがあるが、そこに映るのは三つの広告看板の裏側だからだ。さしづめ広告看板の前が「正義」であれば、広告看板の裏側こそが「善き人」の象徴であり、そしてそれがウィロビー署長の本当の姿。であるこということだ。それがハッキリと分かるのは、やはりラストシーンであの二人が通り過ぎる時の広告看板がやはり裏側からの視点だからだ。つまりあの二人はその瞬間に、「善き人」になったとも解釈できる。もちろんそうしたのはウィロビー署長だ。後半の展開で彼があの二人の「罪」を背負って行ってしまっている体になっているからだ。

 

繰り返しになるが、この映画では宗教らしきモノは出てこない。むしろ最初の方で否定すらしている。それなのに観終われば、宗教劇でも見たような不思議な感覚になるのが『スリー・ビルボード』だ。

 


『スリー・ビルボード』予告編 | Three Billboards Outside Ebbing, Missouri Trailer

 

 

 

スリー・ビルボード

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キリスト教史 (講談社学術文庫)

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