えいざつき ~元映画ブログだったポエマーの戯言~

批評というよりも、それで思い出した事を書きます。そして妄想が暴走してポエムになります。

『リバーズ・エッジ』のネタバレ無しのただの雑感

ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略][加筆有]

  

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movie-riversedge.jp

 

岡崎京子の同名漫画を実写で映画化。女子高生の若草ハルナは、元恋人の観音崎にいじめられている同級生・山田一郎を助けたことをきっかけに、彼からある秘密を打ち明けられる。それは河原にあるものだった。後輩でモデルをしている吉川こずえもそれを知っていた。それ以来、ハルナの友人である小山ルミ、一郎に思いを寄せている田島カンナも巻き込んで、ハルナと周りの日常がわずかだが変化してゆく。

 

 最初に告白しておくと岡崎京子の作品は苦手だ。昔、一応いくつか読んでみたことはあるが、すぐにほうり投げたし、記憶も定かではない。それにこの手のドラマは苦手でもある。だからここでは単に自分の見立てだけを書いて置きたい。

 

ハルナ達が過ごした90年代に限らず、それはいつも青春の一部であったかもしれない。例えば東陽一監督サードのような……。もっとも、それにはいつも具体的に描かれたのは暴力とセックスだった。しかし映画『リーバス・エッジ』にはそれは無い。もちろん表層的にはあるが、あくまでも表層的にとどまっており何か断絶している。この部分がこれまでの青春モノとの違いだ。だから感情移入のフックがすごく小さい。観る人を選ぶ。というよりも、映画が観る人を選んでいる。感じだ。しかし、もしかしたら、だからこそ、かも知れないが、この映画には二つの工夫が「工夫ですよ」では無い感じでされげなく入っている。

 

ひとつ目の工夫は、この映画にはハルナ、一郎、観音崎、こずえ、ルミ、カンナの6人が出てくるが、普通の作劇ではありえない6人へのインタビューがはさまれる。そして、観客には分かるが、そのうちの5人は自覚していない感情が発露されている。「空」だ。「空っぽ」だ。

 

しかし、あとひとりのハルナだけは、自分が「空っぽ」であることを自覚している。この映画のインタビューらしきものはハルナ以外の人物には映画の進行順にしているのに対して、ハルナだけ冒頭と後半に分割して描写される。そして、ハルナだけが事が終わった後に受けているらしいのだ。それは小熊の縫ぐるみで分かる。そこから起こる「錯覚らしき」ものが、かろうじてハルナがこの映画の主人公で彼女を中心にドラマが展開していると思わされている。実は、この部分を除いてしまえばハルナさえもこの日常に埋没する存在なのだ。しかし、この工夫でハルナはこの映画を牽引する主人公になっている。

 

先にハルナは自分は「空っぽ」であることを自覚している。と書いたが、実はハルナとは違う角度から、自分は「空っぽ」らしいのに気がついている人物がいる。一郎だ。事が終わった後に感じている、ある視線が、一郎自身に「空っぽ」であるらしいことを自覚させる。河原にあるものを心の安らぎとしていた一郎の見ていた側から見られる側に変わったことからの自覚だ。

 

二つ目の工夫は、最後まで小さかった画面が広がるところだ。スクリーンのスタンダードサイスがビスタサイズに変化するところだ。そして、そこにいるのはハルナと一郎だ。先にウィリアム・ギブスンの詩が挿入されてのそれはハルナと一郎、そして観客に「ここは戦場」を否応にも意識させる。そして、ハルナと一郎はこの「平坦な戦場」で戦う「戦友」であることも示唆される。

 

ハルナと一郎が「平坦な戦場での戦友」になる。これが自分の『リバース・エッジ』を観終わった自分の見立てだ。

 


映画『リバーズ・エッジ』本予告

 

 

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リバーズ・エッジ オリジナル復刻版

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