まずは、旧約聖書(以下、旧約と略称)のストーリーテリングが観ている方にどのくらい染み込んでいるのかを確認するために次の映画をあげる。
①『インターステラー』
『インターステラー』の批判にトンデモ展開とご都合主義な展開がある。しかし、そうすると何故多くの人々が面白いと感じたのかの説明がつかない、単純に親と娘 のドラマなら「何もそこまで……」になり逆にしらけるからだ。現にSFファンはそうなっていた。それでは、その本質は何か?
それはドラマの内容が結構過激だったからだ。それにほとんどの人は気がついてはいない。要約すると……
「宇宙に憧れを抱くものよ、君たちに試練を与えるよ、それがクリアできたら最高の栄誉をあたえるよ。後は死んでもいいよ」
と、 まあこんな感じで。神様こと五次元人は自分たちの都合(宇宙に進出しないと進化そのものが無いから)で主人公を選択するのだ。ここまで知るとこれは旧約を お手本にしていることがわかる。宇宙に行きたがる人をバカにする世界で宇宙に憧れを抱く主人公と娘に対して五次元人こと神様は試練をあたえるが見返りに最 大の栄誉もあたえるのだ。宇宙の憧れ=信仰として括るのなら、これは旧約でのノアの箱船やソドムとゴモラでの展開に似ている。
(『イ ンターステラー』の批判のひとつに「一見、壮大みえるが、これは単なるセカイ系の話しではないか」といものがあった。『エヴァンゲリオン』や『ほしのこえ』と同じものだというのだ。だとしたらセカイ系そのものの本質が旧約的であると言っているのにも等しいことになる。そういえば、ワームホールが道具とし て出てくる『コンタクト』も神の奇蹟をみせただけの作品でセカイ系と考えられるかもしれない。これの関連として③で別のアニメ作品をあげて書いてみる)
SF という突飛なジャンルを大衆に周知させるには旧約のストーリーテリングは馴染みやすいと、いう事だろう。活字ではもう旧約的なストーリーテリングは主流で はないが、それ以外ではまだ主流として通用できる訳だ。それがまだ使えるとハッキリと分かるのは旧作『猿の惑星』のリブートであるシリーズ『猿の惑星』新 シリーズである。
②『猿の惑星 新世紀(ライジング)』
何故、観客は『猿の惑星』新シリーズのエイプ(猿)に対して反感しないで感情移入ができるのか?それはただ単にCGIの発展だけではない、旧約のストーリー テリングに従っているからだ。『創世記』は旧約での出エジプト記でのモーゼをお手本にしていたし、『新世紀』は創世記(ややこしい!)での「エイプはエイ プを殺さない」の台詞が印象があることからカインとアベルをお手本をしているからだ。だからこそ本来なら恐れを抱くはずのエイプに感情移入をすることがで きた。
さて、旧約の物語とはなにか?と問えば「旧約聖書を読みなさい」と答えるしかないが、映画にもなってはいる。『天地建造』がそれである。
そして、本来なら信仰の対象ではない日本人でさえ旧約的な見方はハリウッドの映画を通して浸透してるとは言える。それほどに物語の見方に忍びこんでいる。それがはっきりとわかるのは映画にもなったアニメ『中二病でも恋がしたい!』
③『中二病でも恋したい!』
中二病を卒業した主人公がヒロインの中二病ぶりに振り回されるのがドラマの中心だが、ヒロインがどうしてそうなったのかは父を失って心が壊れそうになるヒロ インが中二病を発病していた主人公を見ていたからなのだ。ヒロインはそれに“救い”をみる。逃避ではなく、“救い”だ、最終的にはヒロインの行動は肯定さ れて物語は終わる。現実ではなく、中二病がギリギリだが勝負を収めるのだ。「それで、いいじゃない」である。
邦画が実写(三次元)で旧約を使うと違和感がどうしても感じてしまうが、アニメ(二次元)は表現方法としては後発だから約束事としてファンに浸透することができたのかもしれない。
旧約のストーリーテリングとは何か?といえば、それは「信じられない事を違和感を抱かずに見せる方法」だ。①②③の作品の共通でもある。
そこで、本題の『エクソダス:神と王』がどうしてイマイチなのかを書くことにする。(もう、察しはついたとは思うけれど)
『エクソダス:神と王』は旧約のストーリーテリングを使ってはいない
ということだ。旧約なのに利用を捨てている。ところにある。
こ こでのモーゼは近代的自我の人物としてニーチェ的(これは、現代人の私たちが感情移入しやすい設定だ)に描かれていて、自らは神を信じない男として描かれ ている。神を信じない男が神に選ばれるという相反した不条理からくる苦悩が中心となっている。おそらく映画に出でくる神はある特定の者を保護する力と人格を持つ神 話的な神ではなく、原始的な神として設定されているのだろう。人の社会には害しか出さない神として。だとしたらあの展開も納得はゆく。
だ から、多くの人が抱いている「イマイチ」感は出エジプト記を原作にしてるのに「そうなってはいない」感にある。作り手の微妙な変更が観る側とのズレが生じて無意識のキャチボールがう まくいってはいない。アート系ならそれでも良いが、これはエンタテーメントなのだから。「観たいものを魅せてはいない」わけだ。
そして、付け加えるなら敵役のラムセスも神や迷信を信じないが権力は信じる男として描写されている。-モーゼを殺さなかったり、ヘブライ人の解放を労働力の視点から拒否する場面などからみてそれ は分かる。-どうみてもコントにしかみえない十の災厄にあってもモーゼの言葉に従わないのはそのためで、クライマックスでのあれは権力をもった王が神に挑戦 する流れだが、キャラの描写に深みが無いために、それもうまくいってはいない。
なぜなら、監督のリドニー・スコットはビジョアルには凝るが、そこに表現としての暗喩や比喩は入れない。演出としての仕掛けもしない監督だからだ。脚本どおりに撮る。だからだ。そして、付け加えるなら敵役のラムセスも神や迷信を信じないが権力は信じる男として描写されている。-モーゼを殺さなかったり、ヘブライ人の解放を労働力の視点から拒否する場面などからみてそれ は分かる。-どうみてもコントにしかみえない十の災厄にあってもモーゼの言葉に従わないのはそのためで、クライマックスでのあれは権力をもった王が神に挑戦 する流れだが、キャラの描写に深みが無いために、それもうまくいってはいない。