適切ではない表記をみつけたので書き換えました。修正と共にお詫びいたします。[敬称略]
『キャロル』を観ました。
キャロル : 作品情報 - 映画.com
『キャロル』は苦手な映画だ。同性愛だからではなく、頭を使う映画だからだ。美しい映像とキッチリとしたカットで普通のエンタメとして楽しめるが、時代背景を考えると違和感もあるのも確か。それに何か “意図” を勘ぐってしまうのも、また確かなのだ。
そこで原作本を購入して読んでみました。映画との違いは五つ。
A:キャロルとテレーズのきっかけは列車ではなく人形。
B:テレーズは写真家ではなく舞台美術を目指している。
C:テレーズとアビーが出会うのは小説は早い。
D:リチャードとハージは小説は俗物ぶりが目立っている。
E:ダニーは小説ではテレーズに好意がある。
だろうか。
Aを入れたのは映画だとキャロルがテレーズを誘っているようにみえているのに対して小説だと伝票の書き間違いでテレーズがキャロルに接触する体になっていて逆になっている。これは小説だとテレーズの一人称で展開しているが映画ではテレーズのターン→キャロルのターン→テレーズのターンに戻る、と通常のメロドラマの構成と微妙に違うのでプレゼントを列車に変更することで「こうゆう構成」だというのを観客に示している。
Bは素直に映像の効果をねらって舞台美術から写真家に変更したものだと思う。
Cは映画だとキャロルと別れた後にテレーズはアビーと会話をする。これはテレーズとキャロルの心の動きをアビーを通して表現しているのに対して小説だとテレーズのさや当て、つまり恋のライバルとして登場している。これは小説がテレーズの一人称から成り立っているからだと考える。
Dはそのまま。映画に比べて小説のリチャードとハージは男の権利をむき出しにしてくる。
Eは映画だとダニーはテレーズに好意を抱いていないが、小説だとテレーズを理解した上で好意を抱いている。これはリチャードとハージに対する「そんな男ばかりではない」アピールとテレーズが人としての魅力をもっているのを表現したものと考える。
つまり映画はありきたりなメロドラマで、小説はありきたりな恋愛小説なのだ。
ありきたりがキーワードだ。映画も小説も同性が愛し合うのは……
ただ「心」だと表現しているのである。
「そんなの当たり前」と考えているのならこの時代設定の50年代は「当たり前」が通用しなかった時代である事を忘れている。『ミルク』 (2008) で描かれた同性愛者の公民権運動は70年代で60年代のウーマンリブ運動まで10年ぐらいの差がある。それをするのには困難な時代の恋愛物語なのだ。
それがはっきりとわかるのは小説の著者パトリシア・ハイスミスのあとがきだ。正直、小説よりもあとがきに感動してしまうという読書としては最低な行為だが、してしまったのは本当だ。
『キャロル』は映画も小説も「見えない聞こえない何か」を訴えている。そう考えるしかない。