ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[修正有][敬称略]
『小さき勇者たち~ガメラ~』はここには含まれない事をお許しください。
映画『シン・ゴジラ』公式サイト
『シン・ゴジラ』の公開に便乗した記事を書きます。
テーマは「平成ガメラは何が新しかったのか?」
ガメラ - Wikipedia
簡単にいえば「怪獣の定義を変えた」だ。
怪獣とは「何か」の象徴をした存在だ。特に「未開」、「放射能」、「宇宙」。等々、“恐怖” からの象徴をかたちづくり先鋭されていったのが『キングコング (1933)』から怪獣の存在証明だった。もちろん、必ずしも怪獣という造形にする必要はないが、それらだどメッセージが強くなりエンタメとしての楽しみがかなり減ってしまう。だからこそ “恐怖の象徴としての怪獣” なのだ。知見がまだ一般人に広がっていなかった背景もあって、人は怪獣をとおして「闇を覗く」そして「自らに潜む恐怖に対峙する存在の立場になった」といってもよい。
そして、その感覚は少なくとも70年代まで生きた大体の人々に共有されていたが、知見が広がるにつれて、その感覚は薄れてゆき、ゲーム等のエンタメの多様化もあいまって、怪獣は “恐怖” よりも “愛玩” としての立場になった。まともに “恐怖” しているのはローティーンぐらいになってしまった。
しかし、『平成ガメラ』がそれを変えた。怪獣に象徴ではなく、具現にさせた。闇から開放して「人に潜む恐怖」ではなく外側に出て「人と対決」する恐怖に切り替えた。といってもよい。つまり怪獣というローティーン向けのジャンルを大人でもそれなりに楽しめるエンタメに再生させた。「怪獣の定義を変えた」とはそうゆうことだ。
『ガメラ1』 ではギャオスをとおして「怪獣は他の存在とどう違うのか?」かを描いている。アバウトに書くと「でっかい動物(鳥)」じゃねえ → 超音波で鉄を切るから違う。「恐竜みたいなもの?」 → 急速に変化するから違う。そして不自然な遺伝子配列。を描くことで「怪獣が象徴的な恐怖」ではなく「人類を駆逐する存在」として定義されている。「あいまい」ではなく「危機を強烈」に印象づけるものになっている。
『ガメラ2』ではレギオンをとおして「宇宙怪獣がいたらそれは何か?どうして地球(星)に襲来するのか?」かを描いている。社会性昆虫の視点をレギオンに取り入れてシロアリのような群体で行動する存在として描写した。お手本にしたのはおそらく『放射能X』だろうが、それが「放射能の脅威」の象徴だったのに対して『ガメラ2』では「怪獣と人類は対立するしかない」を印象づけている。
『ガメラ3』で強烈なのは「人類は滅びる」を象徴的にではなく具体的に提示しているところだ。魔法ものではお馴染みだが “マナ” という架空の「エネルギーみたいなモノ」を設定して、「人類が命数を使い果たした」様をゲームシミュレーションとしてみせてギャオスの大量発生に意味をもたせた。SFというよりもファンタジーの評価がある今映画だが、実はこれラリー・ニーヴンや堀晃のハードSFで知られた手法だ。
自分が「ガメラをヒーローとしてみる視点」なのはそうゆう構成になっているからだ。「理解者が少ない孤独な存在」それが『平成ガメラ』の最大の魅力といってもよい。それは今だに薄れない西部劇から刑事モノまで続いているヒーローモノの系譜にも含まれていて、『平成ガメラ』もそれにあたる感動がある。
この魅力の骨格をつくったのは三作品すべてに関わった脚本家伊藤和典のおかげだろう。観念的な(すぎる)押井守の映画を具現化させて押井守を現代のカルチャーヒーローとして押し上げた「内助の功」が実績としてあるので、怪獣でもその手法を使ったのだろう。監督の金子修介と特撮の樋口真嗣に注目がいきがちだが、『ガメラ1』でギャオスが夕日をバックに破壊された東京タワーに佇む名シーンは特撮の画としての魅力だけではなく伊藤和典の「話運びの上手さ」が見事に決まったから名シーンになったのだと自分は考えている。
『シン・ゴジラ』はおそらく「3.11後の日本」を意識したつくりになるだろうし、そうしないとリアリティの無いものになる可能性 ーもちろん、それを無視して超えるものがあれば別 。ー が大きいだろうが、そこには「怪獣としてのゴジラの見直し」が映画の評価に関わってくるのかもしれない。
『平成ガメラ』はそれを見事に成功させたのだから。
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