ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
早世のSF作家 伊藤計劃の『虐殺器官』を読むと著者がかなりの映画ファンだと感じる。『虐殺器官』だけでも『CURE』『ゼイリブ』の影響を感じ取ることができる。
ただ映画はドラマが原作よりも弱くなっておりラストの感動(衝撃)が弱くなっている。そこの問題は後述して、ここではPROJECT ITOH 伊藤計劃の最後の映画化『虐殺器官』 --実際にはこれが先だったらしいが、問題があって最後になったーー を基に『ハーモニー』『屍者の帝国』も含めて著者の長編三作を貫くテーマは何か?伊藤計劃の自分が感じた特徴を書いてみたいと思います。
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ここからはネタバレになります。映画を観ていない方にはおススメできません。
理性は近代を語る上で見逃せない要素のひとつだ。プロテスタント誕生から教養主義をへての理性という概念の誕生、そしてそれを多くに取り入れた人間主義は今では社会の隅々にまで行き渡って切り離せないモノになっている。
しかし伊藤計劃はそれに異議を唱える「それは正しいか?」と。人間が作った理性に、そしてそれがもたらす影響と社会に小説として反証を与えるのがあの三作の大きなポイントだ。『虐殺器官』の理性の危うさ『ハーモニー』の理性が行き着く先のディストピア『屍者の帝国』が理性の傲慢さを描いている。だとみれば納得するだろうか。
理性は人間が苦労して手に入れた「財産」にも関わらず、あえてそれに異を唱える。
しかし、異の「唱え方」は独特だ。普通なら悲観的や冷笑的になるのだが、それに陥らないようギリギリのラインで踏みとどまって描いている。
そしてそこからヒョコッと表れるのは装飾も加工もされていないドがつくほどのむき出しのロマンチシズムなので、そのむき出し振りにどうやって対応してよいのか分からずにとまどう。
そこがファンが感じる魅力でもあり、感じられない人には呆然か拒否しかない。
後述の問題に入る。原作だとクラヴィスがルツィアを求める理由がクラヴィスの心の傷に起因するのだが、映画だとそれが無くなっている。ルツィアの役割が原作だと赦し求めるマリアになっているのに対して映画だとミューズまたはファムファタールになってしまっているところだ。時間の都合なのは分かるが、だとしたらそこにクラヴィスとルツィアのセックスシーンを入れるかそれが無理ならせめて電車のシーン前でも濃厚なキスシーンを描くべきだった。ソレが無いから見た目に反してクラヴィスがウブなティーンエイジにしか見えないのでクライマックスとラストの衝撃がかなり弱まっている。『ハーモニー』ではそこはチラリと見せていただけに惜しい。
本題に戻る。自分はSFの魅力は大きな何かをどう「魅せて」くれるのか?だと思っているから現実の延長線上にある伊藤計劃の作品にそれを感じられない --『屍者の帝国』には少しあるが、それはもしかしたら共著の円城塔によるものかもーー のでSFとして認めるのは抵抗がある。著者の作品はSFというよりもゴシックとしての魅力かもしれない。光と闇との境界がいかにして曖昧になるのがゴシックの魅力なら、理性とロマンの境界が曖昧になる。のが伊藤計劃の自分が感じる魅力であり「文法」なのかもしれない。
余談:アプローチと語り口は違うが、理性が行き着いた未来を描いたSFにスタニスワフ・レム著『星からの帰還』がある。そして日本だと人間主義とロマン主義の葛藤を描いた作家にマンガ家の手塚治虫がいる。『火の鳥』や『ブラックジャック』にそれらのエピソードがチラチラとあったりもするから著者が存命ならまた別の「何かを」みられたのかもしれない。