ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
韓国映画『殺人の告白』(以下、『殺人』と略)を翻案にした『22年目の告白 私が殺人犯です』(以下、『22年目』と略)は観終わった後に誰もが感じるとおり藤原竜也劇場だ。彼のキャリアと繊細な演技力がなければ成立しない映画だ。そして共演の伊藤秀明の無骨な演技がうまくはまって新しさはないものの楽しめるつくりになっている。
ミステリーとアクションの二本仕立ての『殺人』と違って『22年目』はミステリーが主で展開する。そして『殺人』にはないある「捻り」を加えたことで情緒的な終わり方をした。それがドラマとして感動できるのか、それとも冗長と感じるのかが『22年目』の楽しみ方の分かれ道かもしれない。そしてその「捻りに」に自分としてはモヤモヤしていたのを感じていた。『殺人』や『22年目』両作に描かれる「法と正義の問題」ではない別のモノだが、このブログを読んでそのモヤモヤに気がついた。(ちなみに原作は未読)
ここでは、それを基に書いてみたいと思います。
こちらもお願いします。
これから先はネタバレになります。映画を観ていない方にはおススメできません。
トリックよるミステリーの弱点は「それだけで観ている人を引っ張れない」問題がある。純粋に推理だけだとコアなファンはともかく普通の人は絶対に退屈する。だから、映画はエモーショナルな要素を入れやすい。どんでん返しミステリー(SFも)に傑作が多い。『情婦』『探偵スルース』『シックス・センス』などだ。
そして『殺人』もその中に入るが『22年目』はそこをあえてずらしてきた。それは、つまり「犯人はどうしてその犯罪をしたのか?」だ。それはどんでん返しと違って『人間の証明』や『砂の器』などの邦画でしか観れないミステリーだ。ハッキリ言うと「泣けるミステリー」でもある。ちょっと前までテレビのサスペンスドラマでは定番の展開でもあった。『22年目』では、この邦画ミステリー独特の見せ場はどんでん返しが分かってからはじまる。
共通するキーワードは「喪失感」だ。『22年目』では牧村刑事とあと一人だけが目的の達成のためにそれがないが、あとは全ての人物に「喪失感」がある。山縣院長の台詞「ファントムペイン」だ。彼等はソレに振り回される『22年目』はそんな映画だ。それに共感できるのは現在の50代、40代、30代にとって阪神淡路大震災以降の価値観の流動性を体験しているからでもある。「絶対は無い」と。
70代以上がそれを戦後から体験的に得たのに対して50代以下はこの20年間で徐々に得た。ともいえるかもしれない。『22年目』はそこに着目してドラマを展開している。22年間とは戦後の代用でもある。
つまり『22年目』は現在なら古臭くかんじる。かつて(オッサン向け)の邦画ミステリーの常道を換骨奪胎して現代的な視点で整えてみせた。この映画の評価すべきポイントはそこにあると自分は思う。ラストのアレは昔なら『ゼロの焦点』から定番となった断崖で表現されるところだ。
ただ、その目論みが成功しているかといえばそうでもなく、特にニュースキャスターの仙堂などは明らかに浮いている。個人的な記憶だがフリージャーナリストからニュースキャスターになった人などいないからだ。意図として立てたのは分かるのだが……
そうした疎はあるが、ここは偉そうに「その意気はよし!」と書いて締めます。