えいざつき ~元映画ブログだったポエマーの戯言~

批評というよりも、それで思い出した事を書きます。そして妄想が暴走してポエムになります。

ポスト宮崎駿はこうして掴め!! あと、ちょっとだけ『メアリと魔女の花』評

ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略][加筆修正有]

 


『メアリと魔女の花』最新予告編 

 

米林宏昌監督『借りぐらしのアリエッティ』で自分が感じの妙な違和感は次作『思い出のマーニー』を観て何となく分かった。監督のまなざしは「小さい」のだと。 『アリエッティ』は滅び行く種族である少女と人間の少年とのめぐり合いを描いた映画だが、監督のまなざしはあきらかに人間の少年である翔にしかない。アリエッティ達には無い。だからこその違和感だったのだと。

 

アリエッティ』の翔、『マーニー』の安奈、そして『メアリと魔女の花』のメアリに共通するのは「身体的な引け目をもつ者が不思議な体験をして、前向きになる」だ。つまり観る人をかなり選ぶタイプの映画だ。主人公 、今作だとメアリが最初から好きな人は感情移入もできて、その映画も好きになるが、ならない人にはその魅力が分からない。だから賛否両論になるのも分かる。自分はその「小ささ」を極めた方が米林監督自身の独自スタイルが生まれそうな感じがするが、それがポノックが次世代のジブリに繋がるかはどうかは分からない。

 

 

さて本題。ジブリといえば宮崎駿だが、独立独歩の感が強い高畑勲に対して宮崎監督はエンタメらしく多くの人に観てもらうための色々と工夫をしている。早い話が女性層の獲得なのだが、その地味なことが宮崎監督の作品を今の国民的アニメ監督として地位を築いたのではないのか?

 

多くの人に観てもらうには共感の幅を主人公だけに感じる者だけではなく、それ以外の人にも与えなければいけない、それをやるにはどうしたら良いのか?

 

その考え(妄想)を基にして、ここではあまり評価がされない脚本家としての宮崎駿に着目して『ルパン三世 カリオストロの城』『天空の城ラピュタ』『魔女の宅急便』『もののけ姫』を使って書いてみたいと思います。

 

 

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 デミルに聞いた。「どうしてあんな映画をつくるんですか?」
「映画は女が観に行くものですよ。男じゃないですよ。で、女は観に行った時にみんなにね、感激した時に電話かけるんですよ。『良かったよ。あの役はよかったよ』。男は観に行っても、感激しも電話なんかかけませんよ。女ですよ、女ですよ。だから私は女の映画を作るんですよ」と言ったのね。

注:デミルとは地上最大のショウ』『十戒の映画監督セシル・B・デミルのこと。

    淀川長治 著 映画好きなら一度は観ておきたい!淀川長治総監修クラシック名画解説全集 より。

 

 

 『カリオストロの城』でヒロインであるクラリスが監禁されている塔から、不二子が逃げ出そうとしている時に不二子がルパンの昔の女だったことを知る。そして「棄てられたの?」と訊ねる。これはヒロインであるクラリスの純白性が崩れ生々しい女としてのクラリスが現れるシーンでもある。もちろん、これが中盤の見せ場とラストの感動にも繋がっているわけだが、その見逃しがちな会話が、いわゆるアニメファン以外の客にもこのアニメが「観れる」のだとアピールされる。少なくともここに不快感を感じる女性はいないはずだ。

 

天空の城ラピュタ』では見張りをするバズーとシータの会話を空の賊であるドーラが伝令管で聞くシーンがあるが、そこでシータが「(ラピュタには)行きたくない」という本心をドーラが神妙な面持ちで聞く。もちろんそれは損得で動くドーラがそれ以外の感情に揺れるモノでもあるが、それが間接的にはシータ(子供)とドーラ(大人)との女どおしの「心の会話」にもなっている。子供の悩みを聞く大人の体にもなっている。その前フリとしてドーラに「(シータは)若い頃の私にそっくりだよ」言わせていることからも分かる。

 

魔女の宅急便』はちょっと難しくなるが、キキのはじめての客を理想の女性と擬似的に想定(前フリにショーウィンドウのファッションに興味があるを描写して)して、自分の(自分らしい)絵に悩んでいた絵描きの女性を間に入れることによって、理想 → 絵描きの女性(自分らしさ) → キキが求める本当の大人。を暗に示している。これは女性に共通するテーマでもあるから。多くの共感を得る。

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魔女の宅急便』より

ちなみにクライマックスで群集がキキを応援する描写があるが、これは群集=映画を観ている人。と簡単に変換できるから、これも共感の幅を広げる。

 

もののけ姫』はアクロバテイックだ。最初の方にアシタカを慕っている村の娘を入れ、いわゆるモテ設定にして犬神から弾丸を取り出す口に血がついたサンに一目ぼれをさせて後に彼女に対してアシタカは「そなたは美しい」と言うのだ。これは「彼はその他にみせる表向きではなく本当の自分が好き」なのだと描写しているのと同じだ。これも多くの共感を得る。

 

以下のとおり宮崎監督は作品ごとにこんな工夫をしている。しかも作品ごとに上手くなっている。

 

 

ここまで書くと『メアリ』は脚本で何をするべきだったのかがうっすらと分かるだろう。大人との会話。または対比。をすれば良かったのだ。チャンスはあった。鏡のシーンだ。そこであの人物とメアリが心の内をやりあっていれば、『メアリ』は多くの共感を得られたかもしれない。しかし、それをしないのが米林監督らしさでもあるが。

 

 

余談:国民的映画になった新海誠監督『君の名は。』も多くの女性に観てもらう工夫をしている。登場人物のひとりである奥寺ミキがそれにあたる。十代の恋愛話に十代以外の多くの女性が興味を示したのは彼女を通して三葉と瀧を見ているからだ、お姉さん視点でもあり、そこからかつての自分を見る視点にもなっているからだ。ざっくり言えば同監督の『雲のむこう、約束の場所』での岡部の役割を女性に置き換えたのが功を奏したともいえる。もちろん多くの共感を得るならオッサンよりも女性が良いに決まっているから。

 

 

 

  

宮崎駿論 神々と子どもたちの物語 (NHKブックス)

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