ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略][誤字修正有]
今や大作全とした映画を撮るようになった原田眞人監督の『関ヶ原』。原作は司馬遼太郎で多くの人が期待するのは戦国武将たちのかけひきとクライマックスでの迫力ある合戦シーンだろうが、そうゆうのを期待すると肩透かしを食らう。素人には優しくないのだ。戦国時代の政治体制と状況、それぞれの国言葉と考え方がなんの説明も注釈もなく展開されるので、予備知識が無いと充分に楽しめていないのでは?の感覚に襲われるかもしれない。
だが心配しなくていい。知らなくても良いのだ。原田監督は元から説明する気は無いし、そういった知識は一度、原田監督のフィルターに通されるので監督の作品にはなっても、歴史モノとしての壮大な再現にはならない!
元々、原田監督はそうゆうスタイルだ。映画の中では絶対に説明しない。
『ガンヘッド』のクライマックスで主人公のブルックリンが「ジェロニモ!!」と叫ぶシーンがあるが、その意味を映画では説明しないのと同じだ。知らなくても良いのだ。
『ガンヘッド』より
何故なら『関ヶ原』のテーマは戦国の合戦ではないからだ。前作『日本のいちばん長い日』で描かれたテーマは「忠(ちゅう)」だったが今作で描かれるのは「義(ぎ)』だからだ。だから、戦国の知識は必ずしも必要はない。
ここではそれに基づいて、映画で描かれた「義」について自分の考えを書いてみたいと思います。
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ここから先はネタバレになります。観ていない方にはおススメできません。
「あの男は智慧がありすぎたのさ」
と、如水は言った。
「ありすぎて顔にまで出ていた。おれと似ているが、おれはまだしもそれを韜晦する術を心得ていたから、命がきょうまで保った」
映画で描かれる「義」は冒頭から定義される。秀吉と三成(佐吉)の出会い 温い湯を多めに → 少し熱い湯を中くらいに → とても熱い湯を少なめに、これが「義」だ。
「義」とは条理だ。道理ともいう。条理とは「正しい流れ」だ。滝の水が上から下へと流れるようにだ。逆はない。儒教の「義」はそうゆうものだ。
「義」に対する概念は「利」だ。「利」とは “自分本位” だ。だから、時として「正しい流れ」に逆らうことがある。映画の根本にあるのは「利」に走る戦国武将達の中で三成だけが「義」を貫こうとする姿を描いているのだから。戦国時代の知識は必ずしも必要はない。と書いたのはそうゆうことだ。
そして「義」は己の中にあるものの資質だけではなく、教養だ。勉学によって磨かれるモノだ。命のやり取りだけでは決して得られないものだ。三成に敵対するのはそうゆうモノが分からないからこそが真の理由だ。
もっとも、大一大万大吉の言葉こそあるが、三成の「義」がどうゆうものであるのかは映画では説明されない。しかし、それはとても素晴らしいものであるらしいのは島左近の出会いで分かる。憤っている左近を三成が説得するシーンで。
上座に座る左近と下座に座る三成。 → 同じ座で座りなおすが、互いに背を向け横に座る。 → 縁側で並んで座るが、三成がひとつ下がっている。 → 林の中を三成と左近が並んで歩いている。しかも馬を貸す。
三成の「義」に感動した左近の変化がそれで分かる。
それは三成の間者である初芽にも現れる。「愛しい」といっておきながら。不義を働きたくないから戸惑う三成がどれだけ素晴らしい「義」なのかが、これも説明ではなく描写されている。何故なら初芽はこの顛末を最後まで見届けるからだ。映画では左近と初芽は三成の「義」を描写するために存在するといっても良い。
それで三成の「義」の素晴らしさを描写している。説明は一切ない。これが原田イズムだ。
対する家康は「不義」だ。「利」ではなく「不義」なのは、家康もまた「義」を知っているからだ。謀(はかりごと)をする男なのだから。三成と同じかそれ以上の教養を持っているのはあきらかだからだ。それは三成が関ヶ原で倒れていた地蔵(道祖神)を元に戻したのと同じようにまた家康も倒れていた地蔵を元に戻しているところからも分かる。同じ教養人でありながら三成と家康は真逆の道を行く。
これが戦国の再現ではない『関ヶ原』のドラマだ。
しかし、そのために他の武将達があまりよく描かれてはいない。原田監督のフィルターを通すと彼らは登場人物達の足を引っ張る印象を受けてしまう。そのために戦国に詳しいひとからみればかえってイラついてしまうかもしれない。
原田監督のスタイルはあきらかに日本人向けだけではなくグローバルな視点で描いている。グローバルだと説明するだけで時間をとってしまうのだから、「何となく分かってもらえれば良い」のスタンスなのだろう。その視点からいえば当然といえば当然なのだけれども……
せめて語り手を黒田如水にすればよかったのに。そうしたら粋な締めで終われたかも。