ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
フィクションでお馴染みの手法であるマクガフィンといった概念は乱暴にいえば、主人公がある事柄に入ってゆく動機づけであり、その道具はなんだっていい。
言語学でいうイディオムは違う意味を繋いで別の意味を作り出す。熟語や慣用句がそれにあたる。
『ラストレシピ〜麒麟の舌の記憶〜』はマンガ『ザ・シェフ』のような主人公が『ザ・シェフ』のエピソードのような体験する感動的な映画……と言いたいけれども、自分は白けてしまった。ちなみに原作があるが、そちらは読んでいない。
ここではその感情を書いてみたいと思います。
こちらもお願いします。
『ラストレシピ』のドラマは主人公の「一度食べた味を再現できる能力」をもった佐々木充がかつて満州国で完成したという幻の大日本帝国食彩全席のレシピとそれを生み出した山形直太朗の軌跡をたどってゆくうちに実は……。といった内容なのだが。ドラマだけを抜き出してみれば。
何故なら、ドラマから見れば、理想の料理を追い求めて挫折し借金返済のために流れ料理人をしている充が似たような理想を追い求めていた直太朗の心の変化を探るうちに自らが変化してゆく展開なのだが、これだと満州国の件は不要だ。舞台設定にこだわらず普通に「昔こんな凄い料理人がいたから、この料理を再現してほしい」で充分に展開できるし、感動も変わらない。
無理やりに意味を込めれば「中華の満漢全席を超えるものを作り出した日本人がいた」ぐらいの意味づけしかなくノンフィクションならともかくフィクションでそれをするのは奇妙なコンプレックスと自画自賛であり「どうかしている」としかいえない。そして、前出のマクガフィンやイディオムにもなってもいない。簡単にいうと無意味なエピソードだ。
もしかしたら料理モノのよくあるドラマ「宮廷料理と大衆料理の垣根を超えるのは真心」を表現したかったのではないのかと直太朗の妻である千鶴と餅入りロールキャベツで予想はできるが、直太朗が著したレピシの全容が見えないから予想できるだけだ。もしもそうならばエンドロールでちょこっと見せるだけではなく、それをクライマックスにドーンともってくるべきだ。
料理がドラマの中心なのにクライマックスは料理で描かない。この映画の欠点だ。
そんなの素人には分からない。とは言わせない。それは脚本と演出でカバーできるからだ。というよりもそれが仕事だ。だから、あれだけ説明台詞がいっぱいなのに肝心なことからこの映画は逃げているとしか、考えるしかない。
しかし、やっかいなのは監督がベテランの滝田洋二郎でサクサクと観れちゃうのでこれに不満を抱くものは少ないところか。でもなぁ……。

映画「ラストレシピ~麒麟の舌の記憶~」オリジナルサウンドトラック
- アーティスト: 菅野祐悟
- 出版社/メーカー: 日本コロムビア
- 発売日: 2017/11/01
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