えいざつき ~元映画ブログだったポエマーの戯言~

批評というよりも、それで思い出した事を書きます。そして妄想が暴走してポエムになります。

ネタバレ有:『キングスマン ゴールデン・サークル』のちょっとだけ厳しめな感想

ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]

 

ポスター画像

www.foxmovies-jp.com

 

 『キングスマン ゴールデン・サークル』は『キングスマン』の続編。前作で一流のエージェントに成長した主人公エグジーが迎える今回の敵はポピーが率いるゴールデン・サークル。キングスマンを壊滅したその組織の目的と阻止をするために生き残ったマリーンと共にアメリカにあるキングスマンと同じ組織であるステイツマンを頼って行くことになるが、そこで意外な人物と再会する……。

 

 スパイヒーローモノの嚆矢であるジェームズ・ボンドとはトラディショナルの嗜みだ。早い話がオッサンのファンタジーでありライトノベルだ。組織に属していながら時には上司の指示に叛き、それが結果としては正しく上司を屈服させたり、壊さないでくれと言われた兵器をボロボロに使い倒して壊し、もちろん美女は抱き放題。組織にいたらそんな事は絶対に出来ないことをボンドは平然とやってのける、まさしく彼は「大人の不良」なのだ。そんなオッサン達の憧れをジェームズ・ボンドは与え続けていた。

 

ところが1970年後半以降からボンドのイメージは失速してゆく、ボンドが与えていた憧れと社会の現実が合わなくなっていったからだ。ピアース・ブロスナンが演じる五代目ボンドは変わらないボンド像が現在の社会状況に放り込まれたらどうなるか?を主眼に描いていたしダニエル・クレイグ演じる六代目ボンドはかつての「大人の不良」であるボンド像を再構築するために一から始めていったところを主眼に置いているところからも分かる。何故なら『ジェイソン・ボーン』や『ミッション:インポッシブ』が今のスパイヒーローモノの中心だからだ。「大人の不良」は現代では要らないのだ。

 

ジェームズ・ボンドのようなヒーロー像が現実にそぐわなかったら合うように背景である社会状況を変えてそこに当て嵌めてしまえば良い『キングスマン』のエグジーは「大人の不良」の今風な焼き直しで構築されたスパイヒーローだ。原作は読んだことはないが1作目からはそう察せられる。そしてそこで描かれた社会状況は戯画された英国を中心とした階級社会だった。

 

そして『ゴールデン・サークル』で戯画されるのはアメリカだ。コテコテのアメリカ観が描写される、ステイツマンやゴールデン・サークル、合衆国大統領などの設定がそれだ。本当にユニバース化がされるのならこれからは各国が戯画されるのだろう。

 

しかし今作はこの戯画が身近過ぎてアクションとしてカタルシスをどう浄化させればよいのかが不明瞭だ。1作目でみせた階級社会は他人事として楽しめたが今作はドラックという問題がテーマにあるために「頭がボーン、ボーン、ボーン」みたいな分かり易さが無い。具体的に言うとゴールデン・サークルのボスであるポピーがあの死に様なのは展開上当然だとしても、ミンチになるのは裏切りの動機が情として納得できるウイスキーなのは微妙なところだ。そうなるなら彼よりもエグジーに対する復讐で動くチャーリーの方がふさわしい。彼がミンチになれば取りあえずカタルシスは浄化されるからだ。そしてウイスキーを倒すのはハリーが相応しい。ハリー復活も印象付けられるし、感動も深くなる。

 

もう一つ付け加えるなら今回のキングスマンはハリーのドラマでは無くてエグジーのドラマだ。だから極端に言えばハリーとの再会もキングスマン組織を全滅させたのもラストの結婚式のためにした感が強い。これは下手をするとエグジーのための牽強付会な展開ととられかねない。

 

と、まぁ不満点を書いたけども、相変わらず「お下品楽しい」し、個人的には充分に楽しめたのも確か。そしてマシュー・ボーン監督が、このキングスマンの世界観をどのようにしたいのかも薄らとだが見えてきた。これはスパイヒーローモノであると同時に風刺モノでもあるということだ。これからがあるとしたらエグジーとハリーは世評を切る形で活躍してゆくのかもしれない。

 


映画「キングスマン:ゴールデン・サークル」予告B

 

 

Kingsman: the Golden Circle

Kingsman: the Golden Circle

 

  

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画備忘録へ
にほんブログ村

映画(全般) ブログランキングへ