えいざつき ~映画ポエマーの戯言~

映画批評というよりも、それで思い出した事を書きます。そして妄想が暴走してポエムになります。

『15時17分、パリ行き』のネタバレ無しの感想

ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略][加筆有]

 

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2015年8月21日に実際に起こったタリス銃乱射事件の映画化。スペンサー・ストーン、アレク・スカラトス、アンソニー・サドラーの三人は幼馴染どおし。ストーンは空軍、スカラトスは州兵、サドラーは民間とそれぞれの道を歩んでいたが、三人で初めてのヨーロッパ旅行中に偶然に乗り合わせた列車でテロ行為に遭遇する。映画ではそれに至る過程と三人の友情が交互に描かれてゆく。

 

イーストウッド監督ハドソン川の奇跡は観終わったあとに目が点になった映画だった。つまらない、分けではなく、面白いのは感情としてあるのだけども、「どこが面白いのかが分からない」のだ。テーマは主人公である機長の判断は正しかったのか?だが、それをサスペンス調に演出するのではなくひたすらに機長の内面にそって描く。だから普通の映画なら事故の再現を最初かクライマックスにもってゆくはずだが、ここではそれを中盤にもってゆく、クライマックスで使われるのはシミュレーション。という構成の奇妙さは感情は盛り上がらくても不満は感じない。むしろ満足だ。「何なんだ、これは?」。

 

そして『15時17分、パリ行き』は『ハドソン川の奇跡』よりも奇妙である。主人公等を演じているのが実際に銃乱射事件に遭遇した本人であり、周りの人々もほとんどがそうだ。そして中盤にある三人の旅行のシーンはそれほど時間をとって描写する必要性が感じられない、「何なんだ、これは?」。

 

しかし、テロリストが主人公達に現れる刹那、「スペンサーGO!」の声が聞こえると映画の意図は明確になる。すべては「この瞬間のため」だったのだと。

 

多くの人が指摘するイーストウッド監督の特徴は「男らしさ」だ。もちろん単純にそれを賛辞として使うのではなく「男らしさ」が崩れて(自己喪失)いる人物を描いて、それが復活(または逆に堕ちてゆく)する様を何回も描いてきたのがイーストウッド監督作品だ。この映画も例外ではない。一般的な「男らしさ」から外れているスペンサー等三人を「男らしくする瞬間」として魅せるのがこの映画だ。付け加えるなら『ハドソン川の奇跡』も機長の「男らしさ」が戻るからこそのクライマックスでのシミュレーションだ。

 

普通ならそれを「運命に導かれて」みたいな高みの視点で描くだろうが、それだとまるで何か(神)が存在するかのような印象を与えてしまう。それはイーストウッド監督が思い描く「男らしさ」ではない。男は何か(神ですら)の力も借りず自らの力でそれを誇示しなければならないから。監督の過去の作品からもそれは分かる。そこに描かれていてもイーストウッド監督本人には何かしらの信仰心はない。

 

しかし今回は、それだとやはり間がもたない。予定調和になるから。この予定調和を崩すにはどうしたら良いのか?イーストウッド監督が選択したのが、事件にあった本人達にそれを演じさせることだ。そうすれば予定調和を乱されて間がもつ。構成を変えた『ハドソン川の奇跡』との違いでもある。

 

それから選択した主役三人である素人のためにとられた撮影手法は、旅行前まではこわれゆく女グロリアを思い出させるようなジョン・カサヴェテス監督作品風にして、旅行後からまるでフランスヌーヴェルヴァーグ作品風にしてゆく。手法が先では無い、すべてはイーストウッド監督が思い描いてきた「男らしさ」のためだ。

 

ここから個人として感じた事を書くと、この映画は「撮った」のではなく「演奏した」のではないのかということ。『ハドソン川の奇跡』もこの映画もだ。

 

イーストウッド監督は『15時17分、パリ行き』を演奏した。これが、率直な感想だ。

 


THE 15:17 TO PARIS Trailer (2018)

 

  

15時17分、パリ行き (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

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クリント・イーストウッド―アメリカ映画史を再生する男 (ちくま文庫)

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