ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
森見登美彦原作の小説をアニメーション映画化。勉強家でどこか普通とは違っている小学4年生アオヤマ君の現在の興味は通院している歯医者のお姉さん(の、おっぱい)だ。お姉さんもアオヤマ君に興味があるらしく、ちょっかいをかけたり、チェスを教えたりもする間になっていた。ある朝、海の無い街に突然ペンギンが現れる。その時からクラスメイトを巻き込みつつアオヤマ君とお姉さんの関係は微妙に変わりはじめる。
早い話が、「年上の女性への愛慕」であり、「ひと夏の永遠の恋」が、このアニメの主題だ。
しかし、これを使うと「湿っぽさと切ない」の感覚になるのが通常なのだが、ここでは観終わった感覚が湿っぽくにも切なくならずにむしろ逆に明るい。そして、物語はどう見ても悲しいはずなのにドラマの感動としてはハッピーに感じられる。それはもちろん主人公である小学生らしくない理系男子な拗らせ方のアオヤマ君のキャラによるのが大きいのだけれども、大切なキモはひょうひょうとした雰囲気をまとうお姉さんと「ペンギンと海とへんな生き物」、そしてあのクライマックスだろう。これがあるから、このアニメは「悲しいはずなのにハッピー」に感じられる。
もちろん、アレを色々と理屈はつけられるが、結論からいえば、あのヘンテコな謎は分かりやすく述べる必要はない。というよりも謎を説いてしまうと表面ではひょうひょうとしたおっぱいな人に見えるお姉さんの魅力が完全に無くなってしまうからだ。何故なら、その本質はマイケル・クライトンの小説『スフィア 球体』における球体であり、その元でもあるスタニスワフ・レムの小説『ソラリス』におけるソラリスの海でもあるからだ。だから無理に謎解きはせずにブラックボックス化して楽しむのが通というべきものではないか。
むしろあの世界観をコンパクトにして、宇宙や深海ではなくご近所でも通用するように仕立てあげたのが、この原作だからだ。そしてこのアニメでは哲学的な思索よりも、アオヤマ君の感情という個人的な部分に重点がおかれている。そうゆう意味では原作を映画化したアンドレイ・タルコフスキー監督『惑星ソラリス』だし、これを再解釈した脚本を映画にしたガス・ヴァン・サント監督『追憶の森』に近い。-- 個人的には『惑星ソラリス』は「赦しと愛」をテーマにしていると解釈している。-- 何故なら、このアニメも「死」について語られているからだ。もちろんアレ事を指している。そしてアレも、もしかしたら……だ。
そんなダークさにも関わらずにクライマックスにおける怒涛といっても良い疾走感が、「湿っぽさと切なさ」をより遠ざけてラストが光輝いているのも確かだ。どうやら石田祐康監督の資質というべきモノが原作と上手くマッチして化学反応みたいな何かがおこって爆発した感じだ。このアニメは「傑作!」と言っても良いのだろう。
なのだろう。とは思うのだけれども個人としては絶賛モードまでにはならない。主人公の設定上当然だとは思ってはいても「おっぱい!おっぱい!」の台詞に辟易してしまったからでもある。オッサンの自分には台詞程度ではエロス心は刺激されんのよ。
スケベェ心が満たされないというオヤジな締めで終了!