ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
「音と立てたら死」という設定で進むSFスリラー。人類は絶滅しかかっていた。隕石から飛来した「それ」に。かろうじて生き残った一組の家族。夫のリー、妻のエヴリン、娘のリーガン、息子のマーカスは日常会話を手話で行い、歩くときは裸足だ。そうしなければ「それ」に襲われてしまうからだ。凶暴な「それ」は音に反応するのだ。悲劇的なこともあったが、それも隠して日々を生活していた。が、ある日にその静寂は破られて「それ」が家族に襲い掛かる。
「ホラーって売っているのにどうしてお前はスリラーなの?」の疑問に答えておくと、この映画には「嫌悪感をあおる描写が無いから」だ。
例えば『ドント・ブリーズ』だとコールタールとスポイトの部屋があるし、『エイリアン』だと変な生き物が顔にべったりやお腹を破ってこんにちわー。なゾワゾワ感、つまり嫌悪感を煽るシーンがある。
ちょっとだけ付け加えるとそういった演出は全年齢対象でもできる。話題になった『新感染 ファイナル・エクスプレス』だと人間がゾンビ(?)に変わる瞬間に独自の振り付けをして嫌悪感を煽っていたし、これは失敗例だがトム・クルーズの『ザ・マミー』だとミイラになる瞬間や顔の崩れた友人を出していた。そうゆう演出がある。ーー ちなみにホラーで宣伝していた『ゲット・アウト』もそういった描写がないので自分はスリラーに分類している。
だけど、『クワイエット・プレイス』にはそれがない。「ドンと脅かす」ハッタリや「死ぬか、死なないか」の演出はあるが嫌悪感を煽るシーンはない。
とにかくクライマックスまでは良くいえば伏線、意地悪くいえば「この映画の取り扱い説明書」を読まされている感じだ。「音を立てたら、即死」に反してワザとらしく音を立てるシーンがあるし、直前になると「じ~ちゃん、なんでそこにおるねん」なんてのもあるから。直観的に「この音ならまだ大丈夫だけども、この音ならアウト」が何となく分かり、この辺はもうすべてクライマックの見所のためだけに描写されているといっても良い。
だけども、手を抜いている訳ではなく、これが縦軸なら横軸に「親子のドラマ」を織り込みことで、ワンアイディア一発にありがちな底の浅さの弱点を回避している。第一にあの状況でアレをするということはエヴリンは本質として「強い女性」の設定だ。そしてリーもそうだ。実はリーとエヴリンは隠れているようでいて「戦っている」というのが、ドラマの中心にある。そうでなければ短波で情報収集もしないし、あの張り紙もない。これはリーの職業がどうやら理工系からくる設定で「パターンを見抜けば回避できる」と冷静に判断しているから。だからこそあのラストショットが光る。
しかし、誉めモードから何だけれども「それ」の弱点がSF映画『人類SOS!』での怪物の弱点が海水。とまったく同じなので、「どーして気がつかないんだーー!」と思ってしまったのも確か。しかし、それでイラっとした訳でも白けた訳でもない。むしろ逆に懐かしい気持ちになった。その落し所で、子供の頃読んだ侵略SFを思い出したからだ。
自分が子供の頃に読んだ子供向け侵略SFは1950年代作品が多い『人類SOS!』の原作である『トリフィドの日』や『光る眼』、『見えない生命体ヴァイドン』、『盗まれた街』、そして『宇宙戦争』。それらは「生物の頂点であるはずの人類が、実はそうでもない危うさ」で描かれているので、根本の魅力はこの『クワイエット・プレイス』と同じだ。新感覚ホラーがキャッチコピーの映画だが、自分としてはむしろ侵略SFの温故知新として楽しめた。「怖い」、ではなくて「楽しめた。面白かった」だ。
追記:ネタバレになりますので読みたい方は反転してお読みください。
偶然にもリーガンの人工内耳(イヤホンではなくパッドをしているので)の振動数(周波数)が「それ」がもっている固有振動数(最低周波数)だったので共鳴を起こして「それ」がパニックになる。ドラマ的には子を思いやる父の勝利なのだが、ちょっと間抜けな感じがする。しかし、そんな感じも50年代SF風で良い。

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