ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
映画関係者を目指す人々にとっては教科書というべき必読書『定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー』。このドキュメンタリー映画では、インタビューが行われた1962年当時のヒッチコックとトリュフォーの貴重な音声テープを中心にマーティン・スコセッシ 、デビッド・フィンチャー、黒沢清 等のインタビューを交えながらその魅力について語る。
ケント・ジョーンズ 監督。
私事だが、ネットでの評価が高い映画を観たのだが、どうしても自分にはアイドル映画としか感じられないので自分の中の感情フォルダのアイドルに放り込んでしまった。正直アノ映画はファンのためとファンを増やす以外には機能していないと思う。
アイドル映画とは、まずファンを満足させるために優先するファンムービーだ。それは芸能人だけではなくアニメ映画のほとんどがそれに入る。
言い訳ではないが、それらの映画を蔑視しているのではない。むしろ自分もそうゆうモノに拘泥するタイプの人間だからだ。Twtierではアニメにもいいねやリツイートもするし、最近公開された『劇場版 夏目友人帳』もファンのための映画で、これもちゃんと観ているので、他人のことをどうこうとは言えない。
そして本質としてアイドル映画の目的とは「ファンを楽しめる」ために設定されている。そして、この『ヒッチコック/トリュフォー』も「ファンがファンのために撮ったドキュメンタリー」なので、アイドル映画のフォルダに入る。何しろ、これを楽しめる人はヒッチコックの映画をあらかた観ていてかつ4000円以上もする『定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー』も当然読んでいるという、清々しいまでに「一見さんお断り」の映画だからだ。だから映画関係者や評論家が好意的に書いているのを真に受けて観てしまうと困惑するのは、自然なことでもある。
ちなみに「お前はどうなの?」と聞かれれば、かつては『映画術』はもっていたが、生活苦で手放しました。
ヒッチコック映画はフランスの映画批評誌カイエ・デュ・シネマが提唱した作家主義について語るには最適な題材らしい。--「らしい」というのは自分もこの部分にはサワリ程度の知識しか持ち合わせてしかいないからだ。-- そして、それを証明する強烈な例もある。1998年にリメイクされたス・ヴァン・サント監督『サイコ』がそれだ。1960年に撮られたオリジナルを物語・構図・カットは変えずにカラーと役者だけ替えて撮られたそれはその年の最低映画賞ゴールデンラズベリー賞の最低リメイク賞・最低監督賞を受賞した珍作でもあるが、結果としてヒッチコックの作家性を再評価させる映画でもあるからだ。作家主義とは「その人にしか表現できない」ことであり、絵画に例えると「構図は再現できても微妙な筆使いは再現することが不可能に近い」ことが証明されたから。
そんなヒッチコック映画の「映画文体」の魅力を『大人は判ってくれない』や『アデルの恋の物語』を撮った映画監督フランソワ・トリフォーとの対話を基に第一線で活躍する映画家督たちが語る。この手によくある通常どおり構成なのだが、ところが、ちょっとだけ見所もあるのだ。それは後半の『めまい』の解説で主人公がヒロインに最初に見た姿を強要してヒロインがそれを再現して現れるシーンにヒッチコックが「(主人公が)見せていないが 勃起しているのだ」との語りだ……。
「勃起」だと…………ド変態や!
ヒッチコックの金髪美女に対する偏愛は、これまでに散々に指摘されていたが、あくまでも研究者・ファンの推測でしかなかった。それがこの一言で裏が取れた。
それにもかかわらず、ここではそれに深入りせずに晩年のヒッチコックとトリフォーの交際に収まって終了だなんて、なんてもったいない!それにヒッチコック映画だといったら当然、思い出すアノ監督がいない。それって石ノ森章太郎のマンガを語る時に島本和彦を出演させないのとまったく同じミスだぞ!
そうゆう意味で上品すぎて、所詮『映画術』の特典映像以上のうま味がなく、自分の感情フォルダはアイドルに入れましたとさ。終了!