ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
レイバーと呼ばれる人型作業ロボットが活躍する世界を舞台に、警察のレイバー=パトレイバーを駆使して犯罪に立ち向かう警視庁特車二課の姿を描く。1999年、東京湾岸部では多数の工事用レイバーを稼動させた大規模開発「バビロン・プロジェクト」が進行していた。そんな折、自衛隊の試作レイバーの暴走事件が発生したのを皮切りに、何者かが仕組んだコンピュータウィルスにより都内各所の作業用レイバーの暴走が続発する。
映画.COMより引用
押井守監督
◆はじめに
『機動警察パトレイバー』とは漫画家のゆうきまさみ、メカニックデザインの出渕裕、キャラクターデザインの高田明美、脚本の伊藤和典、監督の押井守の5人で構成された近未来を舞台にしたロボットを使ったメディアミックスで、劇場版は4作つくられたが、ここでは押井守が監督した『機動警察パトレイバー the Movie』(以下、パト1と略)、『機動警察パトレイバー 2 the Movie』(以下、パト2と略)、そして実写映画『THE NEXT GENERATION -パトレイバー』(以下、TNGと略)を中心について自分の考えを書いてみたい。そして、今回の主旨は……
東京生まれの押井守とTOKYOという都市の愛憎について。……だ。
◆押井守と東京
出展が思い出せないので、妄想と思ってくれても良いが、ある作家がテレビでタレントが「東京モン人情は無くて冷たい」と言った発言を取り上げて、「今の東京は地方からの寄せ集めで成り立っている都市で、生粋の東京人なぞは居ない。そんな場所に人情などできるはずもない」と書いていた文章で、その瞬間に脳裏に浮かんだのは、インタビュー集『風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡』での宮崎駿の『パト2』評だった。
……『機動警察パトレイバー 2 the Movie』のときなんか、まいりましたもん。なんか意味ありげだと思っていたら、『しょせん意味など無いんだ』ってね(笑)。おかしいなあと思うと、先回りして言うんですよね実に語り口は巧妙なんですけど、要するに押井さんが言っているのは、東京はもういいやってことなんだろう、だから、伊豆に行って犬を犬飼うんだろって……
『パト2』の物語とは平和ボケした日本のトップと庶民に「戦争のリアル」を疑似的に戦争を体験させるめに首謀者柘植が仕組んだテロなのだが、リアルで考えるとこれだけフワッとした目的でテロを大人数で起こすのはどう見ても無理筋なのはハッキリしていて、だから自分も大方の観方どおり、これはひとつの寓話として見るべきだろうと解釈していた。
なのだが、前述した作家の言葉と宮崎駿の言葉が結びついたとき、2015年の『TNG』のラストがふと頭をよぎったからだ。
『TNG』の物語は柘植の思想に共感していたシンパが再び「あの状況」を再現しようとするものであり、『パト2』の続編どころか、『パト2』を実写で再現しているだけで、つまり『パト2』の繰り返しなのだ。
そしてそのラストは、敵役のステルス仕様のヘリ戦闘機を操縦する敵役の灰原が主人公達にやられて海に落ちて死んだかと思いきや実は生きていて東京に向かって泳ぐシーン。そこに、この作品の明確なメッセージを感じからでもある。(画像は『TNG』)
東京を一生呪ってやる。と……
その時はそう理解したが、どうしてそこまでにこだわるのかが当初は分からなかった。それが、あれで一気に明確になったからだ。点と点が結びついて線になったともいえる。
まず、ひとつ心にとどめておいておけばいけないのは、押井守は東京生まれ東京育ちであり、生誕年は1951年であるというところ。だから押井守は東京そのものを嫌っているというよりも、「東京を蹂躙する地方からやってくる余所者たちの情念」に対して苛立ちを感じている。だというところか。
何故なら、元から東京人なので「地方人が生きてゆくには冷たい場所」だとか、東京の象徴として登場する、高層ビルはすでに物心がついた頃には存在していたので「無機質な東京」は彼にとってはすでに原風景の一部だ。だから、押井にとっての批判すべき情念の対象は「東京になだれ込む余所者」になる。
だから『パト2』で破壊されるのは「橋」であり「通信網」でもある。それは「地方からくる余所者が東京へと簡単にアクセスできる道具からだ。(画像は『パト2』)
それを、同じ東京生まれ東京育ちの大先輩であり、同業者でもある宮崎駿は見透かしていたのだ。ーー ちなみに引用した『風の帰る場所』では宮崎駿も押井と同じであろう感情を吐き出している。
もっとも、『パト2』と『TNG』だけを観ていただけでは、それは見えてこない。劇場版一作目の『パト1』を観てはじめてその輪郭はクリアになる。
『パト1』の物語は最新レイバーのOSが実はウィルスに侵されていて、それを仕組んだ犯人であり自殺した生まれも育ちも東京である帆場の企てによる犯罪なのだが、その足取りを探る松井刑事等が歩く再開発により失われてゆく風景はおそらく押井守の思い出にある東京の姿なのだろうと容易に察せられるからだ。(画像は『パト1』)
そして、この三作を俯瞰で繋いでみた場合、はじめて見えてくる押井監督の情念なのだ。
◆終わりに
最後に自分の考え(感情)を入れておくと、押井守が今の東京を「憎んで」いるのではなくて「苛立ち」と書いたのは、押井守も今の東京の状況を理解してもいるからだ。パトレイバーシリーズの登場人物はそれこそ北海道や沖縄、はてはアメリカやロシア出身者もいる。そして繰り返しになるが、押井守が物心がすでについた頃には大都会東京のイメージは出来上がっており、そしてその「余所者の情念」の拠り所がどこにあるのかを少なくとも頭では知っているからでもある。それはおそらく彼も観たであろう映画『日本沈没』(1973)の台詞を使うならこうなる。
……経済的には世界で一番繁栄している都会だ。人々は家を建て、子供を産んで育てる。歌手になりたい娘、大学を出て一流の会社に入りたい青年、喜びと悲しみがごっちゃにひしめき合い、それでも、みんな精一杯に……
映画『日本沈没』より
押井守作品の特徴に食べるシーンがよく出ることが取り上げられるが、食べるということは、そこで生活している証であり、やはり彼らもそこで生活しているからでもある。それを自分の感情だけで壊すことは、娯楽としてやはりできない。できるのなら特車二課が勝利 -- とはいっても辛勝なのだが -- するラストにしない。つまりは現実はどうにもならないと分かってはいるのだ。しかし、それでもなおその情念を抑えることはできない。
だから、愛憎なのだ。