ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
今日のポエム
たとえ抜け殻でも、美しいものは美しい。
映画とはポエムです!ポエムとは映画でもあります。それでは大いにポエムちゃいましょう!
そして、今回は
『影武者』。
そして、今回のキーワードは。
黒澤映画のダイナミズムについて!
今回はネタバレは無しや。
いきなり、私事からはじまるが、亡くなった自分の祖父は大の時代劇好きだった。一例をあげるなら、テレビの大河ドラマも観て、水戸黄門の本放送を観て、再放送も観るような人で、特に東映時代劇が大好きだったが、唯一大キライなのが黒澤明が撮った時代劇。口ごとに「黒澤時代劇はキザ」であり、「黒澤は時代劇をダメにした」と非難していたくらいなのだから。これはタレント上岡龍太郎の黒澤嫌いとほぼ同じだ。
個人的な思い出話を最初にしたのは、世界的な評価が高く当時からヒットメイカーでもあった黒澤明は批評家だけではなく、一部の人々からも嫌われていた事実であり、その理由も、この一言で集約されるからだ、従来との違和感だ。
しかし、この違和感こそが黒澤映画のダイナミックな魅力と繋がる証明になる。結論から云えば、黒澤映画は手を抜かないセットや本物の矢を撃ったりすることから本物志向と呼ばれていたりするが、その本質はフォルマリスト・形式主義者なのだから。
ここでいうフォルマリストとは文字どおり、構造物をありのままに描くのではなく、極端化して記号に変換するやり方だ。
どうしてそう導かれるのかと順序だてて云えば、まずは最初に映画評論家淀川長治が『影武者』公開時の評でソ連(現在はロシア)の映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインの影響を指摘しているからだ。(画像は『イワン雷帝』と『影武者』より)
もちろんこれは『影武者』だけでなく、黒澤映画の全般的な特徴でもある。(画像は『戦艦ポチョムキン』と『隠し砦の三悪人』より)
そして、エイゼンシュテインといえば、慣れ親しんだ日常を非日常として表現する異化作用、つまり記号化のよる変換を特徴とするロシア・フォルマリズムを代表する映画監督でもあるので、よってフォルマリスト→エイゼンシュテイン→黒澤明の式が成り立つ。そして、ここで祖父の黒澤時代劇の「黒澤時代劇はキザ」であり、「黒澤は時代劇をダメにした」の批難も納得できるところになる……
例えば伝統芸能である能楽や歌舞伎を異化作用というフィルターに通して記号として表現しているのだから。ロックで歌う「君が代」並みにイラっとくるのと同じだ
さてここから本題に入ると、黒澤映画に詳しい人なら、ここでちょっとした疑問を浮かべるはず。なぜなら黒澤映画は編集手法として使っているのはエイゼンシュテインですぐに思い浮かべるエイゼンシュテイン・モンタージュではなくて、『國民の創生』や『イントレランス』などで名を残すD・W・グリフィス監督のグリフィス・モンタージュだから。
エイゼンシュテイン・モンタージュは記号化された画を編集で繋げる事で感情を揺り動かそうとするのに対して、グリフィス・モンタージュは俳優の演技を複数のカメラで撮って、後で編集で繋げる事で自然な感情の誘導を表現する手法なのだが、画づくりはエイゼンシュテインの影響を受けているはずの黒澤はそれを繋げる編集はグリフィスだというアンバランス。
さらにこれをややこしくしているのはグリフィス・モンタージュの前提にある演技論、「内的動機を探って役になりきって演じる」というスタニスラフスキー・システム、いわゆるメソッド演技には黒澤はあまり肯定的では無い。もしも、自然を必要とするのなら、演技がゴツゴツしている俳優・三船敏郎を主役でよく使うことなどあり得ないからだ。だから、それを分類してみると……
A:画づくりは記号に特化している。
B:画と画を繋ぐ編集は自然に見えるようにする。
C:画に映る演技は自然であることを必要としていない。
の三つに分かれ、それを簡略化して書き直すと……
A:不自然
B:自然
C:不自然
になってしまう。その三つを一つにまとめると、黒澤作品のダイナミックと言い表される映像表現とは記号が動き出す映像という結論が道び出される。「記号が動き出す」これはアニメと同じだ。
つまり、黒澤作品の魅力はアニメーションの魅力と同じなのだ。
もっとも、これは因果が逆で、海外のカルチャライズされたキャラが動くアニメではなく、記号としてのキャラが動く日本のアニメは日本独自で発達したマンガの影響が大きい。そして、マンガ家たちにとっての「映画」であったソレは「動く記号」としての影響下に黒澤映画は当然として存在するものとして考えるのが道理だからだ。
余談だが、たまにネットで流れる「アニメは映画じゃない」論の根拠も、おそらくはそんなところだろう。そういった論を取る人は黒澤作品にも批判的な態度を取る人が多くいるからだ。
話を戻して『影武者』について書いてみると。今作はフォルマリスト黒澤明の弱点と本質が露呈している作品だ。弱点とは画が記号化されているのでドラマとしての流れがスムーズよりもギクシャクしているからだ。もう少し付け加えると段取りが丸見えなのだ。久しぶりに観直して直感したのはそれだ、「段取りってんな……」だ。
おそらく、かつてはそうしたギクシャク部分をフォローしてスムーズにしていたのは黒澤作品特有の脚本であり、ようするに橋本忍、小国英雄、菊島隆三脚本のおかげであり、それを体現した俳優・三船敏郎だったのだろう。
皆が認める世界のクロサワとは、この5人によるユニットが作り上げた。というべきなのだ。
なのに『影武者』では、その4人がいない。だからギクシャクと感じる。飛車角がない状態で将棋をさしているようなものだ。
それでも、というよりもそれだからこそ、フォルマリスト黒澤明のセンスの良さが見える作品にもなっている。作中の織田信長が呟く「山が動いたらおしまいよ」を文字通り、画として表現しているのだから。(画像は『影武者』より)
この『影武者』と同じく時代劇である1985年の『乱』を終えたあと黒澤は時代劇を撮るのを止めて自分の感情を吐露するかのような作品が続く。そうゆう意味では『影武者』とは世界のクロサワから、新たに変わろうとしていたのかもしれない。
VODで鑑賞
参考:https://www.youtube.com/watch?v=fC1-ZNxaHPI
Shadow Warrior 影武者 Kagemusha 8K recut