ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
たまにネットで話題に上がるのは「大人向け」の特撮やアニメ話だが。
こういった話題が上がるたびに思うのは、実は1963年の『鉄腕アトム』や1966年の『ウルトラマン』放送がオタクといわれる人々の第一世代として定義されるのなら、その世代は現在61歳ぐらいになっている。つまり還暦の世代が誕生しつつある現実であり、オタク世代が一回りしつつあるという事実だ。『機動戦士ガンダム』ですらファーストからもう40年すぎているのにだ。
何が言いたいのかといえば、「大人の鑑賞に堪えうる特撮」と主張している人々がすでに老年に入ってくる現実に気が付かないで、そういった言説を振り回すのは「最近の若い者」とまったく同じだからだ。
いくら感情を集めてもロジックが伴わないなら論説にはならない、所詮はただの「感情の寄せ集め」にしかならない。
とどめを刺すなら、自分がはじめて観た作品の感動が忘れられないがために、今の現実に理論的整合性も無しに「あーだこーだ」と言ってしまうのは若者からみれば単なる「老人の愚痴」にすぎない。こう言い換えてもよい「お前らがそうゆうのを認めてこなかっただけじゃないか」だ。
また「大人の鑑賞に堪えうる特撮」が特撮オタクだけでなく一般にも認められた例で2016年の『シン・ゴジラ』を上げるのは間違いだとも協調しておきたい。あの作品は当時の社会状況に監督の庵野秀明がかつて観てきたであろう東宝特撮の思い出を切り張りしてそれをあちらこちらに張り付けて仕上げた作品だからだ。映画ファンならそういった手法は『デッド・ドント・ダイ』や『リミッツ・オブ・コントロール』のジム・ジャームシュと同じと気が付くはずだ。違うとすればジャームシュは映画、本、音楽、哲学と広範囲に切り張り貼り付けをしてくるが、庵野秀明は東宝特撮からしかそれをしないだけで、その範囲が誰にも分かりやすいからにすぎない。タランティーノ風手法ともいってもよい。だから、特撮オタクにも一般にも充分に満足がゆく評価を得られたのだが、それは所詮は特撮映画の歴史的蓄積によって生まれた変化球の面白さであって本流の面白さでもないからだ。つまりはそのジャンルでは一回しか使えない。だから、「『シン・ゴジラ』の感動をもう一度」と言われてもおそらくは無理だ。
結論をいってしまえば「大人の鑑賞に堪えうる特撮」なんてものはない。ただ、自分の「その時の」好きな作品、愛している作品を自分なりに語れば良いだけの話なだけだ。それが、結果として数として表れるのならそれはそれで良し!もっとも、それはどんな作品にもいえる話でもある。『シン・ゴジラ』も庵野秀明が東宝特撮を愛している感情はちゃんと伝わっているのだから。
論説として伝えるならロジックが必要になるが、愛は熱量だけで充分に伝わる。その使い方を間違ってはいけない。伝えるならどちらかにしよう。それは大人の自分としての諫めでもある。