えいざつき ~元映画ブログだったポエマーの戯言~

批評というよりも、それで思い出した事を書きます。そして妄想が暴走してポエムになります。

スパイの妻 劇場版

お題「ゆっくり見たい映画」

ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]

 

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今日のポエム

知ってしまった男と見ただけの女

  

映画とはポエムです!ポエムとは映画でもあります。それでは大いにポエムちゃいましょう!

  

そして今回のキーワードは。

 

良かった、いつもの清だよ!

 

 今回超々ネタバレギリギリの説明モード。

 

注意:今回はできる限り核心部分を避けるつもりですが、純粋に作品を楽しみたい方には読まないでおくことを勧めます。

 

いや、いつもの清だったよ!

 

歴史の闇を描いたとか。ヴェネツィア国際映画祭コンペティション部門で銀獅子賞を受賞したり。などと伝えられていたから、「ついに黒沢清も社会批判的で真面目な映画で認められたのか?」などど一抹の寂しさを感じたけれども、いざ観てみたら、いつもどおりの邪悪な清節がちゃんと炸裂した作品だったので安心した!

 

もちろん、本作はヴェネツィアで賞を取ってもおかしくない品の良さがあるけども、何よりもいつもどおりの黒沢清監督作品だった。そこにホッとした。

 

感想はもう書いたのでこれからは解説だけをする。

 

本作は太平洋戦争に入る日本を舞台にした日本映画で本来は8Kフォーマットでテレビ放送されたのを劇場公開用に調整した作品である。(自分は未見)

 

物語は太平洋戦争前夜、満州に渡って人が変わってしまった商社の社長と、その変化に気がついた社長夫人がその秘密を知ることで時代の波に飲み込まれてゆく話になっている。

 

と、表向きは歴史的事実を背景にしたサスペンススリラーなのだけれども、実は本作は最近の黒沢清作品に顕著に表れているサスペンスメロドラマというべきモノだ。

 

サスペンスメロドラマとはサスペンススリラーに感傷的な男女の恋愛劇を加えたモノで具体的な作品ならリチャード・マーカンドの『針の目』(1981)やロバート・ゼメキスの『マリアンヌ』(2016)だろう。

 

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もっとも、黒沢清ならやはりアルフレッド・ヒッチコックの『断崖』(1941)や小津安二郎の『風の中の牝雞』(1948)に決まっている。(画像はIMDb)

 

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断崖

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風の中の牝雞

特に黒沢監督には『風の中の』は特別な思いがあるらしく同監督の『ダゲレオタイプの女』(2016)にはハッキリとその影響が表れている。

 

その物語は、終戦で戦地から帰って来た夫が、留守を守っていた妻が息子が病気に罹った事を喋ったばかりに、その治療費を妻が身体を売って捻出したのではないのかという疑惑からくる夫の苦悩を描いている。そのポイントは「◯◯と離れている間に何かが起こった」だ。そのアイディアを本作ではそのままではなく応用して使っている。

 

だから『風の中の』を知っていると一見不思議な感じである本作がサスペンスメロドラマだと直感で分るし、解釈がしやすいのだ。

  

だが、そこは黒沢清だ。応用力は普通の作り手よりも段違いに凄い。だからすんなりとは意図が見えにくいし、解釈もしにくいところがある。

 

そこで、今回は分かりやすさを優先して本作を夫と妻の動きだけをプロット(段取り)として分解して語ってみると、不思議で不可解な物語&ドラマの意図が明瞭になるので、その様にしてみる。

 

A:戦争前夜の不穏な雰囲気と商社を営んでいる夫と妻との仲の良い姿が描写される。

B:満州に行って帰って来た夫が、以前とは打って変わった姿となって妻の前に表れる。そして夫が妻に対して何か隠し事をしているのを察する。

C:妻はふとしたきっかけで夫がしていた隠し事の正体を知る。それはある一方的な虐待の映像だった。

D:隠し事の正体を知った妻は、夫にそれを告白して共犯関係になる。そして二人でこの事実を世界に暴露しようとアメリカへ密入国しようとする。

E:夫と妻は別々に行動してアメリカへと渡ろうとするが、妻の方が官憲につかまってしまい尋問を受ける、夫の行方は分からない。そしてその証拠となる映像は別のものと取り換えられていて、妻は夫が最初からそうするつもりだったのだという事を知る。

F:精神病院に入れられた妻は、「夫に棄てられられたのか」と自らに問いかけながらも日々を過ごしていたが、やがてそこも空襲に会い外に出たら、そこにあったのは空襲という一方的な虐殺の惨状であり、そこではじめて妻は夫と自分との「違い」を理解して、その時の夫の心を感じて慟哭する。

 

これを分析すると以下のようになる。

 

Aは妻と夫の中の睦まじさを描写して夫が普通の人なのだと印象づけている。つまり彼はスパイではない。

 

BとCとDは満洲で変わってしまった夫に妻が不信を抱く事と、その原因である虐殺の現場を夫が直接見てしまったために夫が正義感からそれを暴露しようとするのを妻が手伝う。つまり妻は夫と秘密を共有した事で互いに通じ合ったと勘違いをしている。

 

Eでは妻が夫と通じ合っていたと感じていたものが実は妻の一方的な思い込みに過ぎなかった事を知る。だから「お見事です」。

 

Fは自分の身にはじめて、映像ではなくて本物の虐殺の光景を目の前にして夫と妻自身が心がすれ違っていた事を、そこで心の底から理解して慟哭する。

 

 

つまり本作のポイントは虐殺というものを「本物を体験して知ってしまった者」と「媒介を通して見た者」との違いだ。「知ってしまった者」と「見ただけの者」の違いだとも言っても良い。

 

「見ただけの者」は衝撃は受けたろうが、所詮は媒介を通してなので、せいぜい正義感でしか理解して動かないが、「知ってしまった者」はそれを直接に受けたのであり、その光景は一生付きまとう。おそらく死ぬまでだ。

 

こんな展開になったのは昨今ネットで虐殺・虐待の映像を目にする機会が多くなり、それについてさまざまな意見が交わされるようになったが、所詮は他人事であって、それを実際に体験したものにとっては永遠に付きまとう感覚なのだろう。今風な言い方をすれば心的外傷後ストレス障害(PTSD)だ。

 

つまり、そんな反応に対する昨今の風潮を痛烈に批判しているのであり、ヴェネツィアで評価されたのもそうゆうところだろう。

 

さて、最後の謎。「夫は妻を愛していたからあんな事をしたのか?」だが、自分の解釈はこうなる。

 

Aで描写されているとおり夫は妻を愛しているのは間違いない。

 

しかしBの体験で夫は変わってしまって、Aの頃には戻れなくなった。そしてそれを理解してない妻と生活を共にしても、いつかは破綻するのが目に見えている。だからあえてEでそうした。と考えている。

 

そうでなけれはF後のエンドロール前のラストの文章は無意味になってしまうからだ。何故ならば、夫の本心を妻が完全に理解して、同じ立場になったこその渡航なのだから。

 

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スパイの妻

 つまり、お互いが慕い合っている仲なのに結局は一緒にはなれなかった。

 

これが黒沢清流メロドラマ。

 

そして、いつも心にドン・シーゲル監督の『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(1956)を秘めている黒沢清監督のこだわり「変容した人間」のモチーフを本作でも貫いているからだ。

 

だから今回も清は邪悪!

 

劇場で鑑賞。

 


『スパイの妻<劇場版>』90秒予告編

 

 

黒沢清、21世紀の映画を語る

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