ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
今日のポエム
そして二つの闇が交錯する
映画とはポエムです!ポエムとは映画でもあります。それでは大いにポエムちゃいましょう!
そして今回のキーワードは。
ダールとゼメキス!
注意:本作はラストシーンに触れる解説をしています。純粋に楽しみたい方は読まない事をお勧めします。
本作はイギリスの童話作家ロアルド・ダール原作をアメリカを舞台にして仕立て直したもので、物語はアメリカ1960年を舞台に事故で両親を亡くした主人公のぼくが祖母と共に過ごしているうちに子供が大嫌いな魔女達が世界中の子供を滅ぼそうとする陰謀に巻き込まれてゆく流れになっている。
そして、その感想は……
うん、いつものゼメキス!
いきなりだが、観終わった感想がそうなんだからしょうがない。作品そのものは感動的なストレートな面白さではなく、結構に入り組んだ変化球的な出来上がりになっている。それに引っかかりを感じる者もいるはずだ。
しかし、本作が原作者ロアルド・ダールの意に叶っているのは間違いない。ようするに、ダール作品の定形である「子供が強き者に対して知恵と行動力で解決してゆく姿」を描き続けてきたのであり、それは幼児虐待の寓話だからだ。本作でも舞台を変えつつも、それをきちんと押さえているからだ。その定形の繰り返しは一説によるとダール自身が子供時代にその様な体験をしているからだ。と云われているらしい。
これは作品に描かれている事は、幼い頃に父と妹を亡くして寄宿学校に送られたことで母にも棄てられたと感じていたダール自身の子供時代の反映である。というファン&研究者の分析だ。つまりダールが描く大人とは子供を虐待をする存在であり、それを倒して、親しい誰かと共に過ごす自らの感情を述べているのだという考えであり、自分もそう考えている。
どちらにせよ、本作にとって魔女とは虐待をする大人の象徴であるのは間違いない。
そして本作では通常とは違う最後が待っている。主人公は魔女によってネズミに変えられるのだが、結局主人公は人間には戻らずネズミのままで一生を過ごすのだ。
原作どおりのこの終わり方は一見ハッピーとはいいがたいが、その布石は冒頭からある。主人公のぼくはクリスマスの夜に両親を交通事故で亡くして母の祖母と一緒に暮らすのだが、その時に祖母が、ぼくに言い聞かせるのが、本作の「神様がなさることは時に不可解で不公平だけれども、それを受け入れていかなければならないよ」な言葉だ。ラスト近くになるとそれに「試練」という文字も加わる。そうしたものを意識した何かは、ダールが読者に送っていたメッセージ、心が傷ついた者が、これから先を生きるための智慧というべきものだったのかもしれない。
幼児虐待と生きる智慧。その二つから見えてくるのはダール自身にあったと考えられる闇の部分だ。
そんなダールの闇を撮ったロバート・ゼメキスもまた、「喪失」をモチーフに撮り続けてきた映画監督だ。『コンタクト』(1997)『キャスト・アウェイ』(2000)『フライト』(2012)『ザ・ウォーク』(2015)『マリアンヌ』(2016)等々、『フォレスト・ガンプ/一期一会』(1994)以降、彼の作品には「何かを失う瞬間」が散見する。
そして、その失う「何か」をレクイエムとして描くのがゼメキスだ。「父との日々(コンタクト)」、「無人島の日々(キャスト・アウェイ)」、「パイロットの栄光(フライト)」、「ワールドトレードセンター(ザ・ウォーク)」、「戦争で引き裂かれた人々(マリアンヌ)」等々。今にして思えば、あの『フォレスト・ガンプ』だって「アメリカ変動の時代の60から70年代」をレクイエムとして描いている。
そして、ゼメキスは「それを失った者が、新たな一歩を進む瞬間」も描いている。
本作だと、「人間の姿を失った主人公のぼくが、新たな一歩に進む」になる。
つまり、本作の映画化はゼメキスにとっても打って付けの題材だったと考えるしかない。そして、人間には戻らないネズミのままで終わるエンドがゼメキスにとってもうまい終わり方なのだ。それは「良い魔女は死んだ魔女だけだ!」みたいなノリノリアゲアゲUSA!USA! のなんじゃこれは⁉な終わり方が「何かを失った者が、新たな一歩を進む瞬間」を描き続けてきた監督にとっては、しっくりとする締め方だからだ。
そして本作を「残酷で楽しいレクイエム」として描いた。
最後に……
劇場で鑑賞。
The Witches - Official Trailer