ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
今日のポエム
その選択が、正しい結果になるとは限らない
映画とはポエムです!ポエムとは映画でもあります。それでは大いにポエムちゃいましょう!
そして、キーワードは。
理性がある恐怖!
今回はネタバレはスレスレの解説モード。
物語は田舎の街で商業画家を営んでいる主人公が、前日の激しい嵐で破壊された自宅の修理のために8歳の息子と共にショッピングセンターに買物にきたところ、謎の霧が街を多いはじめ、不安に駆られてショッピングセンターに大勢と立てこもるが、やがてそこから現れたなぞの化物と戦う流れだ。原作はスティーブン・キング。
そして本作の怖さとは化物の描写ではなくて -- もちろん、そうした描写もちゃんとある -- ショッピングセンターに閉じ込められた人々が、狂信的宗教者のミセス・カモーディの影響で異様な方へ、つまりカルト集団へと変容してゆく様を描く事でホラー映画に興味がない人々にも楽しめる趣向になっている。
ラストシーンについては今さら語る事はないだろうが、カルトに染まらずにそこから脱出をした主人公達も最後は絶景的な選択をしてしまう。
もちろんショッピングセンターに閉じ込められた人々はカルト集団へと変貌したのはミセス・カーモディのちょっとした運と扇動で、人々が思考を放棄してそうなってしまったのは解る。
なら、どうして主人公達はあの様な絶望的な選択をしたのだろうか?
実は、この問いは本作の中心にある恐怖と、人はどうして無教養な者ばかりでなく、教養もある者も冷静な判断力を無くすのか?を語っているからだ。
もちろん、そこに至ったのは、今までの日常とは違う異常な状況が主人公等を襲い絶望したからなのだが、具体的にそうした状況に追い込まれたのは、「理性が暴走した」だからなのだ。
ここでの理性とは、物事を論理的に考える。という意味だ。
それがどうかしたの?とか、そんなもは無くても構わない。などと考えてはいけない。理性とはリベラリズム(自由主義)にとって必要な概念であり、これが蔑ろにされたら、多様化・多様性は消滅して、自分等個人を守っている人権も消滅するし、何よりも19世紀以降からの社会規範(ルール)も危うくなり、やがては文明の崩壊さえもたらすからだ。
ぶっちゃけ、テレビドラマ『ウォーキング・デッド』な世界になる!
さらにぶっちゃけると、テレビドラマ、スタートレックワールドの感動もリアリティが無い空虚なものになっちゃうぞ!
余談だが、それとは別にフィクションでは、理性が通用しないとどうなるのかの作品がいくつか存在する。例えばアンドレイ・タルコフスキー監督が映画化した『惑星ソラリス』や『ストーカー』の原作である、スタニスワフ・レムの『ソラリス』、ストルガッキー兄弟の『ストーカー』のSF小説はまさしく、それを扱っているし、-- もっとも映画監督タルコフスキーは、その二作を映画化する際に原作者の意図などは、これっぽっちも汲んでいないが。(笑) -- 数年前に話題になってアニメ映画にもなった、伊藤計劃のSF小説『虐殺器官』は、人間が持っているであろう理性を書き換えることで、世界を破滅へと導く物語になっている。
それでは、 そもそも理性は感性とかの良く分からない蒙昧な存在では無くて、実体としての「物」として本当に存在するのか?
存在する!と唱えた哲学者がいた。18世紀のドイツの哲学者イマニュエル・カントだ。
カントは『純粋理性批判』を表して、それまで形而上学的の深みに嵌っていて混沌していた哲学を立て直した歴史的評価になっている。
しかし、彼の唱え定義した概念は難解だ。自分も一応著作は通読したが、しただけでサッパリ解らない。そこで今回はアンチョコ本に飲茶 著『史上最強の哲学入門』と西研 編『NHK 100分 de 名著 カント『純粋理性批判』 』の2冊を使って『ミスト』について語ってみたい。
それでは本題に入る。
カントが理性の概念を提唱するに至った経緯はヒュームの経験論を超えるためだった。
そのヒュームの経験論とは「この世界には経験の積み上げだけで成り立っているのであって、主観を離れた視点、つまり客観など存在しない」という考え方だ。ここのポイントは「人の理性が存在しても、それはあくまでも各個人の中だけで、それが一般化する、つまり誰にでも繋がる事はありえない」という考えだ。これは直感的に照らし合わせると腑に落ちる。つまりAのテリトリーとBのテリトリーとは完全な意思の疎通が不可能だと言っているのだから。SFファンなら前述した『ソラリス』、『ストーカー』だし、マンガファンなら藤子F不二雄の短編『ミノタウロスの皿』を思い出しても良い。
それに反対論を示したのがカントだった。AのテリトリーとBのテリトリーとの間には客観性は存在する。だから意思の疎通が出来ると、「誰にでも繋がる」と主張したのだ。これが大雑把だが、カントが主張した理性だ。
その根拠は数学だった、特に微分計算の手法が当時使われていたからでもある。微分とは超簡単に説明すればAとBとの間を算術する計算式の事を指す。
微分は文明を語る上で欠く事ができない。これがあるからこそ物理学が急速に発展しただけではなく、それまで職人の感に頼った少数だった物作りが大量生産によって作られる工学へと発展したのは微分の「発見」があったからだ。
それではカントにとって理性の定義とは何かというと理性にいたるには2つの手順を踏まないといけないと説いたのだ。
感性:その時間と空間にある物を認める能力。
悟性:その認めた物を、人が本来持っているであろう分類能力で類推する。
この二つの手順を通してカントが提唱する「誰にでも繋がる」客観性がある理性になる。
ポイントは悟性(または知性)なのは直ぐに解るだろう。分類と類推という本能に従う動物ではなく、知的な思考を持っている事が自分等の日常を振り返った経験として理解できるからだ。
ここで気が付いただろうが、主人公等の悲劇とは悟性を誤読してしまったからだ。
本来、カントは(実はヒュームも別の視点でそう語ってはいる) 形而上、つまり超自然的な事を語るのは禁止にしている。形而上とは人が分類能力のカテゴリに入っていないからだ。注:ここでカントが批判した形而上とはカント以前の概念であり、識者によってはカントは形而上を再定義・再構築したものと考えている。
しかし、人は知的な人ほど、その誘惑を振りほどくようにはなってはいない。(ましてや、本作だとそこに表れたのならなおさらだ)だから未確認な情報だけで推論をすると極端な考えに行きがちになる。
カントはそれを「理性の暴走」と説いた。
主人公等に起こった悲劇とはそれでしかない。
そこから、導き出されるのは、理性がきちんと機能するためには、ちゃんと吟味された正確な情報が必要なのであって、それがなければ理性など発揮できない。という理性の弱点なのだ。
それは難しい事例でもない。日本なら戦争中サイパンや沖縄でも起きたことだ。
つまり、本作の怖さとは理性の危うさを描いてもいるのだ。
BDで鑑賞。