ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
今日のポエム
その男を殺したのは誰か?
映画とはポエムです!ポエムとは映画でもあります。それでは大いにポエムちゃいましょう!
そして、キーワードは。
令和残侠伝!
今回はネタバレスレスレの褒めモード。
本作は佐木隆三 著『身分帳』を基にした(自分は未読)映画化で、内容は殺人で13年の刑期を終えて刑務所から出た主人公三上が、その内なる暴力的な性格を抑えながらも社会に溶け込もうと悪戦苦闘する流れになっている。
とにかく、多角的な視点をもった作品である事には間違いないが、実はヒューマンドラマの視点で見ると本作はラストで「???!」が残る感情になる可能性が高い。しかし、登場人物達が破滅する様を愉しむジャンルであるノワールとしての視点、特に日本のヤクザ作品の視点から見れば、本作は結構に斬新な作品だ。そしてそこから発せられる「問い」も「深い」。
それはいったん脇に置いて、主人公三上のキャラ造形そのものは典型・古典的ともいえる。それはジョン・フォード監督作でよく使われた「心優しき悪人たち (グッドバッドガイ)」な人々とか、日本の『河内山宗俊』(1936)『無法松の一生』(1943)、それに国民的キャラクター『車虎次郎』とか、数多く存在して、ひと昔の人に好まれた設定でもある。簡単に言えば、「確かに暴力的だがそれは自分のためではなく困っている誰かのために使う人物」としてだ。
また、三上が自らテレビマンに接触する理由は「子供の頃に別れた母に会いたい」という感情からであり、これは股旅という江戸時代のヤクザを描いた長谷川伸の戯曲『瞼の母』を用意に連想させるのは間違いない。
それでは本作のどこが斬新なのかと言えば、日本のヤクザ映画、特に高倉健が主演の『日本残侠伝シリーズ』でのお約束を知っている人なら直ぐに分かる。『残侠伝』が「(暴力を使わない)堪えて、堪えて、堪え抜いて、最後に(暴力で)事を収める」というアレなら、本作の展開はその逆、「(暴力を使って)堪えないで、堪えないで、最後に堪える(暴力を使わない)」なのだ。
そして、それは西川美和監督が原作を読んだ時に最初に主演に高倉健として思い浮かべたエピソードを知っていると本作の意図がどこにあるのかが容易に解る。高倉が演じた主人公等は、いったいどんな破滅をしていったのか?かがだ。不器用で昔ながらのヤクザ (極道でもいいが、どちらでも同じ事) が、社会の移り変わりで誕生した新しい輩の卑怯な振る舞いに対して昔ながらのやり方、つまり暴力で片をつける内容は公開当時、またはその名残を憶えている庶民には身に覚えのある共感とカタルシスを得ることができたが、現代はその身に覚えもなく名残としても感じることが少なくなり、よって共感もカタルシスを得る事は難しい世の中になってしまったからだ。
なぜなら、『残侠伝』が公開されていた頃は、戦中・戦後直後の世代が多く存命だったし、高度経済成長以前の貧困を身で憶えている人々も数多く存在していたが、現在ではそれは無く、いたとしても数が少なくなっているからだ。
つまり、自分達庶民が『残侠伝』で健さんに切られる側にまわってしまった現実だ。
そして我々、観客は、ここで三上という男にある純真さを「世の移り変わり」と「世間の常識」という刃で切り付けて、彼が苦しみ疲弊してゆくその様を、ただ眺めてゆくだけなのだ。本作でキーとして出てくる「堪える」とか「我慢」という刃でだ。裏側からみればこれは世俗化された卑怯でもあるからだ。
これが本作の「深い」部分だ。-- ヒント:あの花言葉の意味。
もちろん、それは悪意ではなく、あくまでも一人ひとりの善意であり、また本作はそういった行為を批判しているわけではない。それは、本作の準主役とも云える、あるテレビマンの男性を通して、ちゃんと描いている。
しかし、それがたとえ善意であっても、そこからこぼれ落ちてゆく人間は必ず存在する。というのを本作ではやっているのだ。
だから、「問い」なのである。
劇場で鑑賞。
映画『すばらしき世界』本予告 2021年2月11日(木・祝)公開