えいざつき ~元映画ブログだったポエマーの戯言~

批評というよりも、それで思い出した事を書きます。そして妄想が暴走してポエムになります。

捜索者

お題「ゆっくり見たい映画」

ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]

 

f:id:ko_iti301083:20210527150144j:plain

 

今日のポエム

懺悔の男

 

 

映画とはポエムです!ポエムとは映画でもあります。それでは大いにポエムちゃいましょう!

  

そして、キーワードは。

 

詩情の源!

 

今回はネタバレアリの解説モード

 

映画監督ジョン・フォードについて語るのはハッキリ言っておこがましい。自分は彼の作品の半分どころか三分の1も知らないし観ていないからだ。

 

それでも面の皮を厚くして、今回本作について語ることができるのはピーター・ボグダノヴィッチ著『インタビュー ジョン・フォード』をアンチョコとして使い、かつ、この作品については数多いフォード作品の中から『男の敵』(1935)を抑えておけば、それが出来るだろ うと考えたからだ。

 

f:id:ko_iti301083:20210527150151j:plain

 

『男の敵』の物語をかいつまむと、イギリス統治下のアイルランド独立運動組織で働いてた男が金に困り、思わず仲間を当局に売ってしまうが、それも組織にバレて追いつめられて命がつきかけた瞬間、教会で仲間の冥福を祈っていた母に赦しを乞い、それがなされると、穏やかにこの世から去ってゆく。特徴は、そんな主人公の心情と舞台となったダブリンの風景がシンクロするあたりが、後のフォード節ともいえる詩情らしきモノが垣間見えるところだが、全体的には彼らしからぬ暗い作品でもある。事実フォード自身も「ユーモアが無かった」と回想してくらいなのだから。

 

しかし、そこからフォードが好んで描くモチーフが見えてくる。つまり「弱さ」だ。彼の詩情の源にはそれがある。ここでいう「弱さ」とは、肉体的・経済的だけではなく精神的なソレも指す。それは、脱獄囚と娼婦の『駅馬車』(1939)や貧困農民達の『怒りの葡萄』(1940)や人を殺したボクサーの『静かなる男』(1952)等などでだ。それは映画監督になる前の貧困の時期を生きていた者としての胸中なのかもしれない。

 

だから、映像関係者から「偉大な西部劇」と評価されていたり、また、大衆からは差別的な読み解きで批判として語られていたり、また、後半の怒涛の超展開に戸惑ったりする本作も、やはりモチーフは「弱さ」なのだ。

 

でも、本題に入る前に本作の物語について語ると……

 

舞台は南北戦争が終わって3年後の1868年のテキサス。南部連合の一員として従軍したイーサン・エドワーズ(ジョン・ウェイン)は数年ぶりに故郷の弟アーロンの家を訪れる。弟の妻マーサ、ルーシーとデビーの姉妹、長男のベンなど懐かしい顔ぶれに囲まれて幼いデビーを思わず抱き上げるイーサンだったが、かつて成り行きで自らが助け、その後アーロンに家族同然に育てられたインディアンと白人娘との混血児マーティン・ポーリーに対して、インディアンに強い偏見を持つイーサンは不快感を隠せない。

 

程なくして、地域の有力者クレイトン牧師が応援の要請に来て、イーサンとマーティンは他の牧場でコマンチ族に盗まれた牛の奪還に向かう。だが、それは彼らを遠くへおびき寄せるためのコマンチ族の罠だった。イーサンとマーティンが家を留守にしている間に、弟一家はコマンチ族に襲われて虐殺され、生き残ったルーシーとデビーの姉妹も連れ去られてしまう。弟一家の復讐のため、そしてコマンチ族に誘拐された姪たちを救出するために、捜索の旅に出るのだった。最初はクレイトン牧師らも加わり大勢で捜索したが、イーサンの勝手な動きにクレイトンは激怒してやがて捜索隊は自然に解散となり、イーサン、マーティンとルーシーの婚約者ブラッドの3人でコマンチ族を追いかけて行った。


やがてルーシーの遺体をイーサンが1人で発見しひっそりと亡き骸を埋めた。最初は共に行動したブラッドだが後にそれを知って自暴自棄になってコマンチ族のテントに突っ込んでいき撃たれて死ぬ。イーサンはマーティンと共にデビー救出のための旅を続ける。

 

そして6年後にコマンチ族に物資を売り買いする男の仲介で、コマンチ族の酋長(スカ―)に出会う。酋長は息子たちを白人に殺された報復として白人の娘を何人もさらって妻としていた。酋長のテントの中で、これまでにコマンチ族が白人から剥ぎ取った頭髪をイーサンたちに披露して見せたのは、成長したデビー(ナタリー・ウッド)であった。イーサンたちは驚きつつも何も手出しが出来ない。仲介した男はイーサンに今後は一切関わらぬと言って去って行った。そしてコマンチ族のテントを離れたところでデビーが追ってきた。デビーは、さらわれてからずっと待っていたが助けに来てくれなかったとマーティンをなじり、今ではコマンチ族の一員の身であるからこのまま自分をおいて帰ってほしいと哀願する。デビーがすっかりコマンチに染まってしまったと感じたイーサンは逆上してデビーを撃とうとするが、マーティンがそれを遮り対峙する。そこにコマンチが現れたので二人はいったんその場を離れて行った。やがて二人は久しぶりに故郷に戻ると、長い間待ちくたびれたマーティンの恋人ローリー・ジョージェンセンが別の男性との結婚を決めて結婚式が開かれるところであった。マーティンは怒り、クレイトン牧師がもめ事の間に入って花婿とマーティンは殴り合い、そして花婿は去って行った。一段落したその時に騎兵隊からグリーヒル少尉が伝令としてやって来て、コマンチ族の情報が入り、騎兵隊のコマンチ族の掃討への協力要請であった。さきほどまでの浮かれ気分が一気に緊張感に変わり、取り急ぎイーサンもクレイトン牧師らも共に行動して、コマンチ族のテントを騎兵隊と共に一気に急襲することとなった。マーティンは襲撃の前にデビー救出を願い出るが、デビー一人のために危険は冒せないと騎兵隊の協力は得られず、襲撃前夜に単身でのりこみデビーと会い脱出の意思を確認するとともに酋長をしとめることに成功する。騎兵隊の襲撃が始まり、酋長の遺体を見つけたイーサンは復讐としてナイフで頭髪を剥ぎ取らんとする。場面は変わり、イーサンはデビーが逃げていくのを見て追いかけていく。イーサンがデビーを殺すつもりだと感じたマーティンがさらにその後を追う。イーサンがデビーに追いついた時に、イーサンは思わずデビーを抱き上げて家に帰ることを伝え、デビーはイーサンの胸に顔を埋めた。

 

青空の下でイーサンの馬に乗ったデビーの姿を見て、故郷に帰ってきたことを喜ぶジョージェンセン家の家族が彼女を暖かく迎え、6年間一緒に行動したマーティンは恋人ローリーと抱き合い家の中に入っていく。イーサンは一人ぼっちになって皆が家の中に入って行ってから後ろを振り返り、砂塵が巻く中で一人去って行き、やがてその姿が消えていった。

 

括弧は自分が記述。

Wikipediaより

 

 

ウィキペディアからコピペしたのは、本作がアラン・ルメイの同名小説を原作にしてるとはいえ(自分は未読)、展開が跳躍し過ぎて要約が難しいからたが、 この物語を知っても本作の背景に入植者等(白人)と先住民等(インディアン)との1609年から1924年の長きに渡る戦いアメリカインディアン戦争を知らないとピンとこないし、さらにテキサスのインディアン戦争中にあった1836年パーカー砦の虐殺で行われたコマンチ族に誘拐されたシンシア・アン・パーカー(他の2人の子供たち)と、彼女は1860年に奪還されたが、その時すでに酋長との間に誕生していた息子クアナ・パーカーは後に入植者等から抜け出しコマンチ族の酋長としてと戦う歴史的事実を知っていなければ、またピンとこない。しかも、入植者等と先住民との戦いは最終的には先住民の民族浄化の段階で幕を閉じているとなれば、本作の跳躍ぶりも理解はできる。

 

つまり、本作に登場する先住民に誘拐されたデビ―のモデルはシンシア・アン・パーカーであり、イーサンの宿敵であるスカ―はクアナ・パーカーがモデルになっているらしいのだ。そうでなくとも、スカ―は入植者と先住民との混血の設定であることは間違いない。

 

でも、デビ―はすぐに分かるが、スカ―がどうして先住民と入植者との混血なのかと断定できるのかと説明すれば、先にマーティンを先住民と入植者との混血児として提示して肌の色と青い目を強調させておいて、スカ―の登場の際にも同じ肌の色と青い目を強調させているからだ。

 

f:id:ko_iti301083:20210527150129j:plain

f:id:ko_iti301083:20210527150133j:plain

捜索者

 だから、本作ではマーティン=スカ―の公式が成り立っている。先住民等の象徴。つまりは同一視されている。

 

そして、前述した『男の敵』のドラマを参考にして、そこから見えてくるのは、物語の締めとしてイーサンはデビーを殺さずマーティン達に還すのは、現実は民族浄化レベルまで迫害した先住民に対するフォードなりの懺悔なのだという見立てになる。

 

しかし、どうして批判ではなくて懺悔になるのかと云えば、本作は鳥瞰的な視点ではなくて、ほぼ主人公イーサンの内面だけを描いているからだ。そしてそれはフォードらしいともいえる。

 

つまり、先住民を嫌悪していた男がどこで心変わりをしたのかが分かるのはひとえにイーサンという男をどのように見立てるかで、その心境の輪郭がクッキリと見えてくるのであり、批判ではなくて懺悔なのかが見えてくる。

 

さて、その具体的な内容だが、早い話IMDbトリビアに書いてあるとおり、イーサンが原住民を憎むようになったのは母が殺されたからであり、-- 序盤、デヒーが隠れる墓石にそう刻まれている。-- イーサンと弟の妻マーサは昔愛し合っていた仲であったらしいという事であり、さらにデビ―はイーサンとマーサの間に生まれた子であろうと解説している。

 

ようするに、イーサンは愛する者を3度失った男なのだ。

 

また、マーティンと恋仲だったローリーが他の奴と結婚しそうになると、そいつと殴り合いで勝ちローリーを取り返し、さらにスカーを倒す。

 

つまり強面なイーサンは本作では何の活躍もしていない、ただ人生を棒に振った男なのだ。そしてそれを象徴するカットが各所に表れる。

 

f:id:ko_iti301083:20210527150107j:plain

f:id:ko_iti301083:20210527150113j:plain

f:id:ko_iti301083:20210527150118j:plain

捜索者

それは、彼の懺悔こと告解を象徴する懺悔室の様でもある。 

 

自分達は119分間ただイーサンの「苦しみ」を見ているだけなのだ。

 

なので、イーサンが、恋人ローリーを取り戻すため殴り合いをしてそれをしたマーティにデビ―を託すのは、これまでの自身を振り返って悔い改めた姿なのだ。

 

そうして、イーサンは懺悔室から出てゆく。

 

f:id:ko_iti301083:20210527150122j:plain

捜索者

これが本作。というよりもフォード流懺悔というべきモノだ。

 

でもどうして、フォードがこのような構成にしたのか?それは『インタビュー ジョン・フォード』で語られている、「肉体的な衰えかもしれない」と。

 

それは、老境に達した男が後世に何を残すべきかを語り始めたのが本作の本義なのかもしれない。

 

VOD&DVDで鑑賞。

 


www.youtube.com

 

 

  

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画備忘録へ
にほんブログ村

映画(全般) ブログランキングへ