ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
「愚行録」「蜜蜂と遠雷」の石川慶監督が、SF作家ケン・リュウの短編小説「円弧(アーク)」を芳根京子主演で映画化。遠くない未来。生まれたばかりの息子と別れ、放浪生活を送っていたリナは、やがて師となるエマと出会う。リナは大手化粧品会社で、最愛の人を亡くした人のために、遺体を生きていた姿のまま保存できるように施術する「ボディワークス」という仕事に就く。一方、エマの弟で天才科学者の天音は、姉と対立しながら、ボディワークスの技術を発展させた不老不死の研究を進めていた。30歳になったリナは天音とともに、不老不死の処置を受け、人類史上初の永遠の命を得た女性となった。やがて、不老不死が当たり前となった世界は、人類を二分化し、混乱と変化をもたらしていく。
映画.comより引用
映画とはポエムです!ポエムとは映画でもあります。それでは大いにポエムちゃいましょう!
今日のポエム
無為の流れ
今回はネタバレスレスレの解説モード。
注意:今回は物語の核心に触れる部分があるので、そこを読む場合は白黒の反転をしてお読みください。
本作の感想を一言で表すと「静謐」。とても品のある仕上がりになっている。
画づくりは計算されて構成されている。光溢れる画 → 光を抑えめの画 → モノクロ → 光溢れる画 の展開から、本作の主人公の心境光景を表現している。
ーー 実は、この表現こそが原作を上手く解釈して、映画へと変換した本作ならではの工夫であるのだが、これは後述する。
そして、個人的な感情を述べると、雰囲気がアンドリュー・ニコル監督『ガタカ』(1997)や物語がドゥニ・ヴィルヌーブ監督『メッセージ』(2016)に似ているという指摘もあるが、前者はセットデザインの雰囲気が似ているだけで本質のドラマは「努力、友情、勝利」というマンガチックで、後者は確かにそれはあるが、宇宙船やエイリアンや地球外を思わせるセットなどのケレン味を感じさせるところがない。それで自分が本作に一番近いのを上げるとしたら、それはジェームズ・グレイ監督『アド・アストラ』(2019)だ。
つまり、自分のガラじゃない。娯楽系SFというよりもアート系SF作品に近いし、また海外受け&批評家しそうな気もする。そんな感じ。
さて、自分の感想は吐いたので、ここからが本題。本作は中国出身のアメリカ人SF作家、ケン・リュウの短編小説を映画化したものだが、原作のキモをしっかりと抑えて映画化しているので観終わったら何か哲学的なモノを感じて感動した人も多いはずだ。
でも、その正体は何なのだろうか?実はケン・リュウ作品の魅力は老荘思想のSF的解釈であり、それがある種の新鮮さで評価されているからだ。
これは自分の当て推量ではない。事実、原作者であるケン・リュウはこう言っているからだ。
人間の本質とは何か、不変なものは何なのか、私たちがこれまで生きてきた中で何が単なる偶然の産物でしかないのか、こうしたことをどうやって見極めるのか。私が伝えたかったのは、変化を恐れる人、変化を受け入れる人、変化を素晴らしいと思う人、変化を人間性の喪失だと思う人の話です。こうした人々の視線を、共感できる方法で伝えたかったのです。全員がすべての視点に同じように共感できなくても良い。それが私のやりたかったことです。
彼のこの言はまさしく老荘思想そのものだからだ。
そして、本作(原作)にあるのは無為自然だと、自分は考えている。
だから今回は本作&原作に秘められている、その思想について少し語り、作品のドラマについて書いてみたいと思う。
さて、本題。無為自然はもちろん老荘思想からの言葉だが、無為自然より先に老荘思想を雑に説明すると、「徳と礼」という形式を重んじる儒教の対立する概念、形式にとらわれず「あるがまま」を重んじるのが老荘思想になる。
ただ、「あるがまま」とは欲望を肯定していそうだが、そうではない。何故なら欲望もまた人が作った形式だから。
ようするに人が思い浮かぶ何かはすべて形式であり、それ以外から生まれる何かが自然。というのが老荘思想の根本。
そこからくる、無為自然とは、その形式という枷から離れた状態の動きであり、それは流れる水に例えられる。
事実、展開はそのようになっている。主人公は「変化」を恐れている。そして「永遠」を愛しているキャラクターだ。だから遺体を生きていた姿のまま保存できるようにする施術プラスティネーションの職業につき、そこで才能を発揮したのも、身体細胞内にあるテロメアを変えることで不老不死を得る決断をしたのも、そして将来、今は不可能でも冷凍睡眠すれば将来、夫の治療する方法が見つかるかもしれないかもしれないのに、それをしなかったからも、それだからだ。もしかしたら、あの子から離れたのも「永遠」が崩れて「変化」がくるのを恐れているからそうしたのかもしれない。
もう少し、ここでつけ加えるなら「永遠」も、また人が考えた形式に過ぎない。何故なら人はそれを経験した事がないからだ。
ところが、モノクロのパートになると、ある人物が主人公に「変化」の尊さを訴えてくる。そこで主人公は「永遠」の価値観という形式から「変化」を受け入れる。そして、あの終わりになる。
そして、その「変化」の果てを美しく終わらせる。
反転開始。
ここで、興味深いのは本来なら老いた親が、自らの生き方で若い子に規範を示すのに対して、それが逆になって、老いた子が若いままの親に生き方の規範を示しているところだ。通常の役割が反転している訳である。つまりは価値観の逆転が行われている。
反転終了。
本作が品の良いSF作品なのはそうゆうところにあるといっても良い。
先に 光溢れる画 → 光を抑えめの画 → モノクロ → 光溢れる画 が主人公の心境光景を表現していると書いたが、それは主人公に心境を水の流れに例えて、それを描いている訳だ。
これが本作のキモであり、ドラマである。
つまりは、皆が感じたその感動とは、無為の美しさなのだ。
劇場で鑑賞。