ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
第二次世界大戦終結直後の1945年末、アメリカ西部の小さな町ブラック・ロックの駅に特急列車が停車、左腕のない1人の男が下車する。その男、ジョン・マクリーディはこの町に住む日本人の男性を尋ねて来たのだ。しかし、ホテルの支配人ピートの妹リズからジープを借りて日本人男性の住んでいた場所へ行って見ると、彼の住んでいた家は焼き払われてなくなっていた。さらに、何者かによる妨害が次々と彼の身に襲いかかる。クリーディは日本人男性の身に一体何があったのかをピートから聞き出した。それによると、真珠湾攻撃の翌日、村を牛耳るボスのスミスは軍に志願したが不合格となり、その腹いせに村人をそそのかして日本人男性の家に火を放ち、彼をなぶり殺しにしていたのだ。マクリーディは日本人男性に会いに来た理由をピートと葬儀屋のドクに打ち明ける。日本人男性の息子は戦時中、二世部隊に入隊し、イタリア戦線で戦死したが、それと引き換えにマクリーディの命を助けた事で勲章を死後授与された。マクリーディはその勲章を男性に届けに来たのだった。
Wikipediaより引用
映画とはポエムです!ポエムとは映画でもあります。それでは大いにポエムちゃいましょう!
今日のポエム
カラテチョップ!
今回はネタバレスレスレの痛快解説モード。
個人的な話から入ると。ちょっと前にTwitterで西部劇ベストテンがあったのだけども、その時に自分がポンと思い出したのがジャンルとしてはノワールであるはずのハワード・ブレスリンの短編小説『本田の悪い時間』(自分は未読) を基に映画化した本作だった。しかも正統派西部劇としてだ。
でも、よく考えたら西部劇じゃないんだよ。現代劇なんだよ。
どうやら脳が誤読したらしい。だから観直すことにした。
でも本作は西部劇のお約束パターンのひとつ。無法がまかり通っている町に腕っぷしの強い男が現れて町の無法を正す。をやっている。どうみても正統派にしかみえない。
つまりは正統派の魅力をもった異色作という結構にややこしい作品になっている。
異色作というのは、当時の西部劇トレンドの変化として。公開された前に『シェーン』(1953) と『ヴェラクルス』(1954) が公開されている。この二作は暴力と欲望を積極的に取り入れ、それまでの西部劇の要諦と形式を変えはじめた頃の作品でもあるので、本作もその枠内なのだと察することができるからだ。
まずは異色の部分を説明すると、時代設定はともかく、まず主人公は西部劇でお馴染みの銃を使わない。代わりに使うのは手刀ことカラテチョップ。
IMDbのトリビアによると、主人公マクリーディを演じたスペンサー・トレイシーは「リアリティが無さすぎる」(超意訳) と言ったらしいが、監督のジョン・スタージェスはこのまま押し切って撮った。
さらにIMDbのトリビアによると、原作では主人公は銃を使うのだが、何故か本作ではカラテチョップに変更されている。
また作中では、ロバート・ライアン演じる街を牛耳っているスミスも徴兵に応じたが身体検査で落とされたところも語られる。日系人のコマコはそうされたのにだ。
そこから見えてくるのは西洋的な白人至上主義をケチョンケチョンに批判しているという事。
いわゆる現在でいうところのポリティカル・コレクトネスを含んでいる事。
本作のドラマのキモはここにある。
でも、政治的な意図は全く感じられない。むしろ後味スッキリの楽しさがある。
そして、そのスッキリさが人々の根幹にある道徳心を刺激しているのは間違いない。
だから自分は西部劇だと感じた。活劇の道徳心とは「正義は勝つ」であり、本作はそれをやっているからだ。
もちろん、監督ジョン・スタージェスはそんな強烈な政治的なメッセージはもっていなかったのだろう。でも公開した時代は日本が1951年のサンフランシスコ講和条約が結ばれた時期でもあったことから、かつて敵として戦った者がアメリカ側(連合国) についた事をきっかけに「日系人は同胞なんだよ」というメッセージためだけに撮ったと考えるのが筋かもしれない。もっと単純に言ってしまえば日系人だけでなくあらゆるマイノリティに潜むプライドを尊重するために撮ったともいえる。事実スタージェス作品の西部劇にはソレがあるからだ。
そして、そういった考えが刷り込んで、どうやら自分に本作が正統派西部劇ではないかという誤読を行っていたらしい。
まぁ、久しぶりに面白かったからどうでもいいけど。
DVDで鑑賞。