ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
ロデオ界の元スターのマイク・ミロ(クリント・イーストウッド)は、落馬事故をきっかけに家族とも別れ、今は競走馬の種付けの仕事をしながら一人で暮らしている。ある日、彼は元雇用主にメキシコにいる息子のラフォ(エドゥアルド・ミネット)を誘拐するよう頼まれ、単身メキシコに向かう。マイクは少年ラフォと出会い、二人でテキサスを目指すが、その道のりは困難なものだった。
シネマトゥデイより引用
今回はネタバレスレスレのチョイ誉めモード
お吸い物のような映画だったな。
まさしく、だし汁と塩と醤油のみで作られていて碗種(わんだね)に鶏肉がチョコンと入っているような作品だった。
そして、その吸い物はとても良い。
もちろん、ここでいう、だし汁とはマッチョだ。ココでもソレをモチーフにしてドラマが展開している。
そして、映画監督クリント・イーストウッドがマッチョを弄る作風なのは映画好きなら誰もが認めてもいる。
また今回は結構にユニークなモノが見れた。
イーストウッド演じる主人公のマイクが、身も心も老境で擦り切れたマッチョを潤すドラマなのだから。
マッチョことマチズモ(男性優位主義)であるのは確かなのだが、それは若さゆえの体力を持っているから、その精神も保てるのであり、それが無くなると最早マッチョとしての意味はなくなる。簡単に言っちまえば老害。
そのマッチョの前提である体力を無くしつつ衰えていく男が、家長性中心のラティーノ文化に触れる事でほんの少しソレを取り戻す。
これが本作の本質だ。
だからラフォ少年を連れ帰るという物語は便宜的なモノに過ぎない。
ーー ちなみにラフォ少年はアメリカとメキシコとのハーフなので、ラティーノのマッチョにこだわったり、アメリカにいる父に会いたがったりと、そのアイデンティティーに悩む素振りがチラホラと見える。
『グラン・トリノ』(2008) では、体力は衰えているものの気力だけはまだ感じられたが、それが本作では主人公が老衰に入っているために、ソレさえ衰えはじめているのを感じているからだ。実際にマイクが台詞を使って喋っているくらいなのだから。
えっ?と思った、そこのアナタ。本作をよく見て。だって、ラフォから「マッチョ」を分けてもらってるじゃん。
ーー あ、でも。マッチョ(候補)であるラフォ少年をアメリカへと送り届ける。という事はアメリカのマッチョを絶やさないためでもあるので、これもまたグラン・トリノなのかもしれない。イーストウッドはマッチョなら白人にこだわらず人種は自由な人ぽいから。
いや、もう撮りたいモノだけをやってる感がアリアリ。
でも、そうした心境になったのは、やはり彼自身が老衰を感じているからかもしれない。(画像は映画.com)
だから、これはイーストウッドの「俺はこんな余生を送りたい」を描いた作品なのかもしれない。
ーー でも、そこから見えてくるのはイーストウッドが感じているマッチョと自分等が感じているマッチョとは違いがあるところだ。少なくともイーストウッドにとってマッチョとは、単純な男性優位主義ではないのは確かだ。そしてその終焉は、それはまるで自らの死期を悟った象が、誰も知らない「象の墓場」(もちろんただの伝説) へと向かうような終わりになる。そうゆう意味では本作はイーストウッド作品では、より濃く「死の匂い」がする作品でもある。
でも、モテだけは譲らないのな!
まぁ、それでこそマッチョなんだけどね。
今日のポエム
マッチョの行く先。
劇場で鑑賞。