ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
貧しい家庭出身の野心的なパトリツィア・レッジャーニ(レディー・ガガ)は、とあるパーティーで世界的ファッションブランド「グッチ」創業者の孫であるマウリツィオ・グッチ(アダム・ドライヴァー)と出会う。互いに惹(ひ)かれ合うようになった二人は、周囲の反対を押し切って結婚。やがて、セレブとしての暮らしを満喫する彼女は一族間の確執をあおり、グッチ家での自分の地位を高めブランドを支配しようとする。そんなパトリツィアに嫌気が差したマウリツィオが離婚を決意したことで、危機感を抱いた彼女はある計画を立てる。
シネマトゥデイより引用
今回はネタバレ無しの軽い感想モード。
最近のリドリー・スコット作品に流れる厭世的雰囲気は何だろう。特に『悪の法則』(2013) 以降、それが顕著になっている。
簡単に言ってしまえば、人は皆バカばかり。
そんなドラマばかりを撮っている気がする。
本作もそんな雰囲気に溢れている。
そしてリドリー・スコット作品といえば、画づくりへのこだわりだが、本作ではその素振りもなくサクサクっと撮っている感じで、実際に今回は42日程度の撮影しかしていないし、前作『最後の決闘裁判』を含めると20ヶ月の早撮り仕上がりだ。
結論から言ってしまえば本作は、実録ではなく、良く出来た風刺コメディだ。
だから、本作のキャラクターはリアリティよりも、極端に戯画化・カルチャライズされているし、撮り方も即興ぽさを意識しているところがある。
ーー でも、興味深いのは脚本はストレートな実録 (そうでなければ、あのオープニングは無い、「どうしてこうなった?」なミステリー風のやり方だから) なのだが、リドリーは本作をコメディ・喜劇として撮っている。
だからグッチ家の凋落を描くドラマではなくて、「アイツ等(グッチ家) はあんなにバカだったんだぜ」と観客こと我々が下卑た視点で溜飲を下げるドラマだ。
品良く言えばシェイクスピア的だし、下品で言えばタブロイド紙的。
大体、ジャレッド・レトやアル・パチーノがあんな演技をしているのだから、シリアスな訳がない。
本作の中でキャラクターとしての陰影があると思われるアダム・ドライバー演じるマウリツィオでさえ、ベスパ(普通)→カワサキ(リッチ)→自転車(没落) と乗り換える単車の経過で、割とメリハリが効いた分かり安さなのだから。
本作はグッチ家関係者から批判されているが、本質が辛辣な風刺コメディなので、それは当然のこと。風刺にリスペクトの概念など無いからだ。
それじゃ、お前はコレをどう観たんだ?と聞かれたら……
『ゲティ家の身代金』(2017) よりは良くなった。かなと。
『ゲティ家』もコメディ -- だって事実とはいえ、自宅に公衆電話ボックスを置くんだせ。それで電話をするんだぜ! -- まだ、「画を作ろう」とか「ドラマをやろう」とかの気持ち・気負いが感じられて、それがノイズとなって見にくかったけれども、本作ではそんなのは一切ナッシング。
ーー もしかして『ゲティ家』からの反省が本作には反映しているのかな?
それがココでは、ほどよく気が抜けているからコメディ・喜劇の雰囲気がちゃんと現れている。(画像は映画.com)
だから、このバカ共をバカっぷりを愉しめ!
でも、個人的には思う存分に愉しめなかったところもある。本作はバカだか、リッチな奴らでもあるので、そこらかしこにリッチのアイコンを偲ばせていて、それが作品に奥行きを与えているらしいのだけれども、自分が理解したのはランボルギーニ・カウンタックくらいなので、その辺りを堪能しそこねたんだよね。
トホホですわ。
今日のポエム
つらいのは、存分に愉しめない我がビンボー。
劇場で鑑賞。