ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
国際問題からアート、ファッション、グルメに至るまで深く切り込んだ記事で人気を集めるフレンチ・ディスパッチ誌。編集長アーサー・ハウイッツァー・Jr.のもとには、向こう見ずな自転車レポーターのサゼラック、批評家で編年史家のベレンセン、孤高のエッセイストのクレメンツら、ひと癖もふた癖もある才能豊かなジャーナリストたちがそろう。ところがある日、編集長が仕事中に急死し、遺言によって廃刊が決定してしまう。
映画.comより引用
今回はネタバレスレスレの解説モード
ルネ・クレールかよ!
ルネ・クレール監督作品については、後でチョコっとだけ語るとして、人によってはロメールを思い出すかもしれないが、ロメールはクレールからの影響を受けているのは誰もが予想できるので、そんなに間違ったツッコミでもないと思う。
それはともかくも、巷ではウェス・アンダーソン監督作品は、完璧なシンメタリーによる構図。独特な色合い。まるで箱庭のようなセット。豪華な俳優陣等々、その作品郡はヌルい映画好きやコア過ぎるシネフィルの皆様方から認められていて、オシャレでもあるみたいだが、この人グレてます。
深夜の校舎の窓ガラスを割ったたり盗んだバイクで走り出すアレです!
不良です!ツッパリです!太陽族です!
そこんところ夜露死苦!(慣れない語彙)
だって真面目な奴よりちょと悪な奴がモテるじゃないですか。あれと同じよ。
映画も真面目よりワルがモテんのよ。
まぁ、少しだけ解説すると、ウェス作品のグレとは標準的映画表現からの逸脱ぶり。と言ったほうか。
映画表現とは、例えば、「オープニングは空撮から」とか、または「カーチェイスで、車線上にいきなり子供とか老人が割り込んでくるとか 。または、屋台に突っ込んで派手に売り物をぶち撒ける」等々の手垢の付き過ぎたベーシックな表現で記号化されているアレヤコレヤだ。
でも、グレてる奴らはそれをそのまま使わない。代わりに別の何かでソレをやろうとする。
人はそれをアーティストと呼ぶ。
カンヌやベネチアやベルリンなどの国際映画祭のはそんな感性の半グレ野郎共がほぼ集う祭りになっている。彼が撮る作品もその一角にあるのだ。
さて本作は、そんなウェスの最新作なので、そのグレっぷりがより楽しめる趣向になっている。話によると、 アメリカの雑誌『ザ・ニューヨーカー』みたいなモノがフランスに有ったらどうなるのか?という妄想を描いたドラマらしいからだ。
どうして「らしい」、と曖昧言い回しをするのかと言えば、『ザ・ニューヨーカー』なんてものは読んだことが無いからに決まってるだろ。(開き直り)
だけども、それを抜きにしても本作はウェスの資質がより濃く現れているのも確かだ。展開がオムニバス(またはアンソロジー)形式になっているために、フランス的なエスプリ(ウィット)の洒脱さとアメリカ的なスラップスティックな笑いの融合がハッキリと分かるのだ。
ウェス・アンダーソンはアメリカテキサス州出身。
敵刺す!(取り敢えずオヤジギャグ)
そしてそれはフランス的なるモノとアメリカ的笑いとのキャッチボールで成り立っているという事もだ。
例えば本作のこのシーンは、あのリュミエール兄弟が撮ったと言われている『工場の出口』(1895)から取ったモノなのは一目瞭然。
だから本作はそうしたモノが交互にキャッチボールする事でスリルが生まれてドラマを動かす作りになっている。
そうして見えて来たのは、ウェスが本作で目指したのは、20世紀前半にフランス映画で起こった、詩的リアリスムの現代的再現だ。
詩的リアリスムとは雑に言えば、ロケではなくてスタジオにセットを組んで、その中のみで撮影する方法で、ルネ・クレール作品などは大型セットを組んてで撮っていた作品があるからだ。
本作にはその匂いがあるのだ。
ここで、やっとルネ・クレールと繋がったわ。
そして、詩的リアリスムはロマンチックだが悲しい終わり方をするので、本作もウェスなりの悲しみで終わる。
オールスター総出演で奴らが慌ただしく賑やかなのは、その後のラストシーンのためにあると断言しても良い。
簡単に言っちまえば「祭りのあとの寂しさ」
それがウェスなりの詩的リアリスムと言っても良いだろう。
劇場で鑑賞。