ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
「武士道といふは、死ぬことと見つけたり」の一節で有名な日本の江戸時代の書物「葉隠」を愛読し、伝書鳩を通信手段にしている変わり者の殺し屋ゴースト・ドッグ。ある日、彼は命の恩人であるマフィアの幹部ルーイから、ファミリーの一員フランクを殺すよう指令を受ける。ファミリーのボス、レイは溺愛する一人娘ルイーズにファミリーの全財産を託したが、彼女はフランクを愛してしまったのだ。ルイーズに父の指令と悟られないようフランクを消すというのがゴースト・ドッグの仕事だったが、ある行き違いからゴースト・ドッグはマフィアとの抗争に突入していく。
映画.comより引用
今回はネタバレスレスレの回顧解説モード
ネトフリとアマプラに『ゴースト・ドッグ』が入っていたので久方ぶりに堪能した。
相変わらずカッコ良かったぞ!
でも、コメディなんだよね。
ところで、ジャームッシュ作品はコアな映画ファンとサブカル系から、ディスコミュニケーションからくるオフビートな雰囲気が認められて人気のあるモノであり、タランティーノ作品に通じる多彩な映画的記憶と批判性が含まれているところから評価されているところがある。違いがあるとしたら、タランティーノはヒップホップでリズムであり、ジャームッシュはレゲエのリズムであるところか。
しかも、タランティーノがそれなりの骨格と枠組みを決めて物語とドラマを組み立てているのに対してジャームッシュは感覚でアレヤコレヤと組み合わせてドラマを組んでいる気がする。物語は結果として現れたみたいな。
フワッとした監督評を許せ。
だから、そんなジャームッシュ作品は難解だとかの声があるが、あらゆる要素をカクテルシェイクしちまえば、そりゃ難解になるわさ。(何語?)
そーゆうこと。
さて、そんなジャームッシュ作品の中でも本作は笑いとカッコ良さが融合している不思議な仕上がりになっているのだけども、カクテルのベースになっているのはアノ2作品なのは誰でも気が付く。
鈴木清順の『殺しの烙印』とジャン=ピエール・メルヴィルの『サムライ』。
この2作。奇しくも公開年が1967年。ついでに付け加えるなら、岡本喜八の『殺人狂時代』もこの年。この一風変わったノワール作品は公開後、後々に根強いファンを獲得する事になる。
変わったノワールと言うのは、真っ当な視点から見ればどうやったって物語とドラマが標準からズレていてヘンテコになるはずなのだけれども、最後の感想は「カッコいい!」になってしまうからだ。ダンディズムに着地するのだ。
本作には『殺しの烙印』オマージュがちゃんと入っているし、『サムライ』にもちゃんとある。ヒント: 女
そして本作も、その系譜になる。というよりも、あきらかにジャームッシュは無意識にドラマを紡ぎ結果としてこうなったのだろう。
でも、先に上げた3作と違うのはジャームッシュ作品にありがちなディスコミュニケーションみたいな気質が本作ではあまり感じられないところか。主人公は「葉隠」を人生のお手本にしたために、言語ではなく精神・魂でコミュニケーションできる描写になっているからだ。
もうちょっと具体的にするとマフィア(白人)には、いつものディスコミュニケーションが働いているが、ゴースト・ドッグの周りにはそれが感じられないところ。ソウル(魂)TOソウル(魂)のレベルでコミュニケーションが成立している。ヒント : アイスクリーム
しかも、魂(ソウル)の承継も行われている。ヒント: ラストシーン
これ実は「葉隠」らしくない。むしろ「禅」に近い。
これはジャームッシュが、禅の精神を世界に布教した仏教哲学者の鈴木大拙が「葉隠」と「禅」との関係性に言及しているのを知識として理解して入れたのか、それとも自身が直感でそれを結び付けたのかどうかは分からないが、どちらにせよ彼が映画的記憶の豊富さだけではなく、かなりの教養人であることは間違いが無い。
オフビートには教養が必要。
お後がよろしいようで。
(画像はIMDbから)
VODで鑑賞。