ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
5,000年の眠りから目覚めた破壊神ブラックアダム(ドウェイン・ジョンソン)。かつて彼の息子は自らの命を犠牲にして父を守り、ブラックアダムの力はわが子の命と引き換えに得られたものだった。息子を奪われた彼は復讐(ふくしゅう)のため現代の地球で暴れ回り、強大な力を使って破壊行為を繰り返していた。そんな振る舞いを見かね、世界の平和を守るスーパーヒーロー軍団JSA(ジャスティス・ソサエティ・オブ・アメリカ)が立ち上がる。
シネマトゥデイより引用
今回はネタバレなしの誉め解説モード
『ブラックアダム』を観てきた。
アダムちゃんで~す!(分かる人はオジサン)
今回は中身が薄いのを書くつもりなのでフカシが多いぞ。
監督はジャウム・コレット=セラ。
愛称はセラちん(勝手に命名)
セラちんといえば、100点よりも、80点のポジションにいるし、その作品群といえば、年間ベストには入らないし批評家受けもマチマチなのだけども、一部の映画好きからは高評価を受けている監督さんでもある。
このバラツキは何なのかを、今回は本作を使って語ってみたい。
さて、セラちん作品の特徴というか作風というかスタイルは、予算と相談した上でのスクリーンという映像空間をフルに活用する。だろう。
つまり、映像派タイプの作り手。
ただ、似たような作風に同じホラー出身のジェームズ・ワンがいるが、ワンくんの映像空間の使い方は多種多様な構図を駆使する天才肌。
それに対してセラちんの構図は、シンメトリーを駆使するタイプ。
図にするとこんな感じ。
シンメトリー構図とは左右または上下が鏡に写ったかのように同じなのが基本だけども、たまにそこをチョッだけ変えることで、サスペンスやスリルも生み出すことができる。セラちんはそれを自在に操ることができる使い手。
ワンくんに比べて手数が少なそうにも思えるが、実は映画は、ひとつでも何らかの構図を自在に操つることができれば、物語がグニャグニャでもただ漫然と見続けることができる代物であり、これが本質でもある。(問題発言)
回り道になるが、スピルバーグが何のキャリアを持たないまだペーペーの時期、映画界の巨人ジョン・フォードと一緒になって……
スピたん「(あなたのような)映画を撮るコツを教えてください」
フォード「地平線(ホライゾン)を画面の中心からずらせ」
……とアドバイスした話があるが、これは二分割構図というもので、フォードはこれを駆使したことで、映画の詩人とまで呼ばれるようになったし、そのアドバイスを受け入れてスピたんも『続・激突カージャック』(1974)や『E.T.』(1982)などの傑作を撮ったりしているのだから、映像で語る映画という表現方法の根本な話なのだ。
ちなみに二分割構図とはこんな感じ。
セラちんってずっと前からこんな感じ。もっとも、自分がそれに気がついたのは『ロスト・バケーション』(2016) からなんだけども……。
-- これもシンメトリー構図だってわかるでしょ!
そこで、映画好きが気がつくのは、シンメトリー構図といえば、あのスタンリー・キューブリックと同じなのに、片やはキューちゃんは巨匠あつかいでセラちんはどうしてそんなに評価が高くないの?
その答えは超簡単。キューちゃんは自身の心情信念にもとづいて自ら撮っているが、セラちんにはそうゆうところがまったくぜーんぜん無い、ゼロ、ナッシングなこと。
だから本作も、現代的な社会風刺をまぶしてはいるけども他の作品に比べて薄味に見えるのはそんなとこ。セラちん自身には強く訴えたいメッセージやこだわりのモチーフとかは持っていないらしい。
-- あ、あくまでも「らしい」だけで断言じゃないから。
それが、キューちゃんとセラちんの違いであり、映画界の評価の差だろうね。
エライ映画評論家達に、やいのやいのと持ち上げられる前のヒッチコックや鈴木清順、加藤泰みたいな立ち位置……。(問題発言その二)
もっとも社会風刺は薄味でも、ドラマの方はちゃんと分かっている者で、本作も泣かしどころは組み込まれている。ヒント:ブロスナン
だから、今回も80点。
劇場で鑑賞。