えいざつき ~元映画ブログだったポエマーの戯言~

批評というよりも、それで思い出した事を書きます。そして妄想が暴走してポエムになります。

フェイブルマンズ

お題「ゆっくり見たい映画」

ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]

 

ポスター画像

 

ストーリー

初めて映画館を訪れて以来、映画に夢中になった少年サミー・フェイブルマンは、母親から8ミリカメラをプレゼントされる。家族や仲間たちと過ごす日々のなか、人生の一瞬一瞬を探求し、夢を追い求めていくサミー。母親はそんな彼の夢を支えてくれるが、父親はその夢を単なる趣味としか見なさない。サミーはそんな両親の間で葛藤しながら、さまざまな人々との出会いを通じて成長していく。

スタッフ

監督スティーブン・スピルバーグ
製作クリスティ・マコスコ・クリーガー スティーブン・スピルバーグ トニー・クシュナー
製作総指揮カーラ・ライジ ジョシュ・マクラグレン
脚本スティーブン・スピルバーグ トニー・クシュナー
撮影ヤヌス・カミンスキー
美術リック・カーター
衣装マーク・ブリッジス
編集マイケル・カーン サラ・ブロシャー
音楽ジョン・ウィリアムズ

2022年製作/151分/PG12/アメリ
原題:The Fabelmans

映画.comより引用

 

今回はネタバレスレスレの泣き誉め解説モード

 

注意:今回は核心に迫るネタバレは避けていますが、純粋に楽しみたい方には読まないことをお勧めします。

 

素敵な作品だった。

 

そして目線の映画だった。

 

もっと具体的に言えば、映画に映る人物の視線と、それを見ている観客の目線とのせめぎあいこそが映画なのだと語っている作品だった。

 

かしこまった物言いをすれば動線であり、小難しくヤレば、自分が『ブラックアダム』の感想で書いた構図論になる。

 

eizatuki.hatenablog.com

 

けれども今回は、目線の表記でいこうと思う。その方がやりやすいから。

 

本作が目線の作品であるのは一目瞭然なのだが、野暮を承知で解説すると……

 

まずは、サミー・フェイブマンズくんことサミ坊が生まれてはじめて観た映画で衝突シーンに衝撃を受けて、それを再現しようする場面があるが、そこでサミ坊がこだわるのは目線・視点・角度、つまりはアングルだ。ただぶつけるのならどこにでもいる普通の子供だが、サミ坊は違う、アングルにこだわる。

 

次に、ちょっとだけ成長したサミ坊が子供仲間一緒に自主制作映画で西部劇を撮るが、やはり子供なのでガンエフェクトのセッティングなぞできない、そこでサミ坊はある方法で目線をつぶすことでソノ問題を克服する。

 

またしても次のサミ坊。これも子供仲間とこれまた自主制作映画で戦争を撮るが、戦争の虚しさを表現するために小隊長役の子供に左右をゆっくりと顔を動かしてゆっくりと歩いてくれ、と指示する。

 

そして、次の次の成長したサミ少年はハイスクール卒業用に撮った映画でイジメられていたスクールカースト上位の少年を、かっこいいアングルから撮影することで撮られた本人がビビるほと素敵な男にしてしまう。

 

このエピソードに共通するのは観客はどう見ているかの目線のことを暗に語っている。

 

でも、それを撮ったサミ坊・サミ少年はわかっていない。たくさん映画を観てきただけなので、ソレをやれば「そうゆうのに見てくれる」と経験からの直感で知っているからやっているだけで、「どうして、観客はそんな様に見てくれるのか」は分からない。

 

それに、確信を与えてくれるのは、さらに成長してサミ青年になった時に出会った、ある大物の「地平線は下か上に置け。真ん中には置くな」の薫陶だ。これは角度・アングルの話であり、つまり目線の話だ。

 

簡単に言ってしまえば、これは演出の話だ。

 

演出とは、映画に写っているものと観客が見ているものとのズレ、もっと簡略化すれば構図から起こる目線のズレこそが演出なのだ。と言っているのだ。

 

少なくとも本作では、そう語っている。

 

それでは大物の薫陶にしたがって、地平線と真ん中が同じ場合、つまり映画と観客の目線が一致した場合はどうなるのか?

 

ただの現実となる。

 

そう、フィルムを編集中に気がついたサミ少年の「ある秘密」のことだ。演出をしなければフィルムにはただ現実が撮られるだけ。

 

そして、サミ少年がハイスクールで受けたイジメのことも含まれる。

 

現実とは地平線がいつも真ん中にある。

 

だから苦しい。

 

ここから何が見えてくるのかといえば、本作のドラマと監督の映画術がワンセットになっていること。

 

そして、映画という芸術に家庭という幸せを引き裂かれた「諦念」と、それでも僕には映画しかなかった。という「固執」がドラマとして組み込まれている。

 

一見すると甘ったるいが、その中味は猛毒。

 

もちろん本作は寓話であって、必ずしもスピルバーグ監督の体験した話ではないのだろ。でも、それでいい。

 

フェイブルマンズ(画像は映画.com)

これは映画であり、映画なら演出が入っているのは当然だからだ。

 

そして、そこから溢れ出る情感とは真ん中(現実)から離れた地平線(映画)との間にしか起こり得えないモノだからだ。

 

劇場で鑑賞。

 

 

 

 

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