ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
うわあっーーー。
マンの映画だ。
そして
変な作品だー!
率直な感想がコレ。
そして……
美しい。
内容は、1957年フェラーリの会社は経営状態が悪く本妻に愛人と子供の存在が知られて険悪ムードという状況になっていた。そんな中で公道レース〈ミッレミリア〉で勝利しようとするが、フェラーリのレースカーが観戦していた大衆を巻き込む大事故を起こしてしまう……という流れだ。
まぁ、娯楽というよりも芸術作品。
芸術なので、こんな主人公は普通は共感はされない。だから展開(プロット)の妙味よりも文体(語り口)で勝負する訳なのだが、マンは有るところに着目してソレを語り切る。
主人公が経営者でもなく技士でもなく元レーサーだったところにだ。
ちなみに主演はアダム・ドライバー(オヤジギャグ)。
ようするに59歳のフェラーリを人生のレースとして際どいコースを己のドライビングテクニックで切り抜くレーサーとして描く。そして、それをやりきった者として描く。ヒント: タイトルロール前の説明
これが、本作。
冒頭にレーサー時代の若きフェラーリが現れるが、マンに言わせれば、あの頃と経営者としてのフェラーリは本質は変わらない。
レースは一瞬、一瞬の判断が生死を決めてすべてを決めるからだ。
事実、本作では公私共に難題が降りかかるのだが、ココでのフェラーリは内面の葛藤は描かずに、それらをその場その場の判断で切り抜く者として描いている。まぁ、そのせいで葛藤を出しまくる本妻演じるペネロペ・クルスが目立つ結果にはなってはいるけども。
でも、それが一つの文体となってソノ美しさを引き立たせているのも確かだ。
人生の難所を自らの判断で切り抜ける。
これが本作。
そして、レースカーの美しいことよ!
そして、その美しさは凶器でもある。銃撃戦をやってきたマンにとって美しさと凶器は同じモノだ。
そして、美しいだけでなく凶器としても描く。ここでのレースカーは銃器と同じ。
だから、ヘンでもあり美しいでもある。
劇場で鑑賞。