ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]


先ごろBSで市川崑監督作『炎上』(1958)が放送されたので、今回はコノ作品についてチョイ語ってみたい。
とはいえ、今回は背景が込み入って語るのが難しい作品でもある。実際に起こった1950年「金閣寺放火事件」を元に三島由紀夫が『金閣寺』を書き、それを市川崑が『炎上』として映画化をしているのだけども、三島の『金閣寺』は実際の事件を元に彼にとっての「美とは何か?」を開陳、あるいは試行錯誤の状態を表明しているのでとにかく読み解くのが難しい、いわゆる難解なモノに対して市川の『炎上』は違う角度から別の作品として仕上げているからだ。
そして、原作とは違うのに三島は『炎上』を評価しているので評価も込み入っている。
なので、今回は自分の解釈だけを書き連ねることになる。
その前に原作『金閣寺』と映画『炎上』の内容をかいつまむと、幼い頃より父親から金閣寺美しさを刷り込まれた、吃音で他者との交流が困難で苦しむ主人公の溝口は、父の死とツテをきっかけに見習いとして金閣寺に入る。そこで主人公は、重職になるように焚き付ける母と、周りの状況の変化と現実と、様々な出会いによって変化が生まれて、やがて事を起こす……そんな流れ。
ちなみに、市川監督の『炎上』では金閣寺の名前が使えなかったため驟閣寺(しゅうかくじ)という名称になっている。
それでは先ず、三島の『金閣寺』から。
難解だと言われている三島の小説だが、キモとしては三島作品にある美意識「もののあわれ」を念頭におけば何となる。
しかし、「もののあわれ」とは、日本の国文学者である本居宣長が提唱した概念なのだが、その定義は「外から入ってきた儒教や仏教の思想を廃した日本人独自の美意識」が基盤としてあるくらいで解釈は研究者によって微妙に違っている。
と、いう現実はあるが。判別の仕方としては、西洋の美意識の根底にある「永遠に変わらない」ものに対して「もののあわれ」は永遠とは真逆の変化(うつろい)の美を求める様がその根底にある。
日本の美意識とは、ギリシャ・ローマ文化を基にした確固たる何かがある西洋とは違いこのように微妙な差によって成り立っている。三島言うところの「石の文化と日本独特の木の文化」との違いでもある。
さらに三島の原作は「もののあわれ」に「孤高」を付け加える事で金閣寺の美を磨き上げる。
それに対して、主人公の溝口は、「ものの」が無い単なる「あはれ(同情)」で「孤独(あはれ)」な存在だ。吃音で他者と上手く交流はできず、出世を望む母を疎ましく思い、出世のための住職には嫌われる。
つまり、対極にある「醜」だ。
なので、その金閣寺(美)に対して溝口(醜)を対比して描く事で「美と醜の確執」を暗に語っている。溝口は「金閣寺の美しさに対して自分(人)はどうだ?」の自問自答して、その答えというか道しるべのようなものを察する。
それが、三島の『金閣寺』だろうとみている。
だから、原作の締めはアアなる。溝口はそこで自らにある感情「死なない」が生まれたのはソウユウ事だ。自ら、あるいは人に顰む「醜」を自覚する。
それらに対して、市川の映画『炎上』は原作にあった美意識の問答は無くなった代わりに、主人公の溝口が驟閣寺の「美」に対して恋愛感情にも似た気持ちを抱いている。
早い話が、市川の『炎上』は心中モノなのだ。
『炎上』の溝口は吃音のためでもあるが、どんどんと孤独に陥って驟閣寺にすがってゆく。そして、その行き行く先に放火がある。
「一緒に死んでくれ」という感情がほとばしる。
そのために『炎上』では三島が『金閣寺』で表わした美意識の葛藤は無く、ただ主人公溝口の心情に寄り添った描き方をしている。原作と違い警察の取調べからはじまり、実社会の様相に嫌気が差し孤独の果てに絶望した後に事に及ぶ展開になっている。
そして、何よりも違うのが原作では死なない選択をする主人公が映画では自殺をして果てるのだ。
だから、心中なのだ。
ぶっちゃけ、現在の言い方からすればストーカー行為なのだが、『炎上』は芸術参加作品なので、ミステリー風ではあってもそうはならずに溝口演じる市川雷蔵を通して主人公が孤独に追いやる描写をする。
おそらく監督の市川と脚本家(和田夏十と長谷部慶二)には三島の原作とは別にドストエフスキーの著作『地下室の手記』も念頭にあったのかも知れないが、狙いは違えども『金閣寺』と『炎上』の根底にある「近代合理主義的思考とは真逆にある孤独」は結果として表れている。

この視点が、三島が映画を高く評価した理由かもしれない。
(画像は映画.comより)

