ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
小松重男の短編小説集『蚤とり侍』の挿話を基に映画化。エリート藩士・小林寛之進はひょんなことから藩主の機嫌を損ねてしまい猫のノミとりを命じられてしまう。憤りながらも実直な寛之進はその稼業につくが、実はノミとりは表向きの仕事で本来は女性と床で愛と情をお届けする裏があった。稼業を始めたその日に亡くなった女房に瓜二つのおみねと床を一緒にするが、事を終えたおみねから「下手糞」と厳しい言葉を浴びせられる。気落ちした寛之進だったが、偶々に助けた清兵衛がその手の手練に長けた者だと知って実直な寛之進はその教えを乞うことに……。
例えば、 -- 原作は未読。-- 小林寛之進の設定を現代に置き換えると。40代、勤勉実直なサラリーマンが、ひょんなことから社長の怒りを買って地方に左遷、それでも勤勉実直さを失わずに職務に励んでいたらいつの間にやら女にモテモテ、素晴らしい青年を助けて地元の人々との親しくなり、女好きだが生涯の友にもめぐり逢い、モテモテ女の一人が総理大臣の愛人だったので言葉を交わし、そこから左遷だと思っていた移動が実は派閥争いから自分を守るためにした社長の温情だった。なんて、どうみても都合が良すぎな展開はすべての壮年(中年)の溜飲を下げるためだけにあるといっても良い。
つまりこのドラマは「オッサンのためのファンタジー」なのだ。
ただ、この視点のドラマがこの映画の大きな売りなところでもある。昨今の時代劇は『るろうに剣心』や『無限の住人』での殺陣(アクション)を売りにして若者を楽しませたり、逆にシニア(老年)の溜飲を下げる『水戸黄門』や池波正太郎の時代劇と二極化しているので、間にあるこれが返って新鮮味を感じる。
また、清兵衛の教えを受けた寛之進がおみねとした二度目の情事は清兵衛との友情を示す場面でもあり、そこで繰り広げられる描写と画は奇妙な艶(エロス)も感じられたりもする。
つまり時代劇には定番の市井モノにいつものチャンバラではなく色事を交ぜたのがこの映画だ。すべては壮年の溜飲を下げるためにそうしているのだ。
だからといって、壮年でも諸手を上げて面白い訳でもない。挿話のつなぎは妙だし展開は主人公のモノローグを中心とした登場人物のしゃべくりなのだが、その雰囲気を楽曲が見事に潰してくるのは相当に辛い。
個人としては「桂三枝はどう演じても桂三枝しか見えない」ものだし、この手の映画で必ず配役される「寺島しのぶ使い過ぎ問題」もある。
それらを考慮に入れても、つまらないと感じた人は「見た目はどうであれ、貴方は若い!」でもあるし。ちょっとでも面白いと感じた人は「見た目がどうであれ、君はオッサンだ。僕の仲間だ!」なのだ。そうなのだ!(断定!)