ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]


告白すると、鑑賞したのはズッと前で、力作なのは理解しているし、満足か不満足かの二者択一なら「満足」と答えるが、絶賛なのかと言えば「……」という微妙な位置。
マァいつものやつです。
だから語らない気分だったが、他に題材もないので今回は自分の感情を語っておきたい。
内容は、太平洋戦争後の本土復帰する前とベトナム戦争中までを時間軸にした沖縄(琉球)の米軍基地が集中する地区、特にコザ市(現在は沖縄市)を舞台(らしい)に、そこで基地から物品を盗んで民に分け与えている〈戦果アギャー〉をしているオンちゃんをリーダーに、本作の語り手のグスク、彼の血の繋がりは無い妹のヤマコ、そして親友のレイ達はいつも通り基地に侵入して失敗。その逃亡中にオンちゃんと分かれてしまい再開することなく月日は流れ、グスクは刑事に、ヤマコは教師に、レイはヤクザにと道が違いながらも、オンちゃんへの思いは続けていたが、グスクにコンタクトをとってきた米民政府官僚のマーシャと通訳の小松からオンちゃんが重大な秘密を持っていたらしいと聞いて……な流れだ。
それに戦後から復帰直後に起きた1970年10月に起きた大規模な焼き討ち事件であるコザ暴動までの時代を描いている。
見所。と言えば語弊があるが、一番に強調されているのは戦後の中国残留邦人と同じように国に棄てられた沖縄の人々の苦難だ。対比はされてはいないが、この時代の本土は戦後復興から経済成長の道のりにあるので悲惨さは明確だ。
さらにそこに、現実を当てはめてみると、舞台当時の沖縄では、米国に帰属する派と本土に復帰する派と独立を求める派の3つに分裂していた状況なので、そこから察すると、グスクは米軍と近いので米国帰属派に入り、ヤマコは本土復帰派に入り、レイは民族運動の男と出会ったことから独立派に入ることとなり、それは当時の沖縄の人々の心情と葛藤を3人に振り分けて代弁して描いている形となる。

もうちょっと付け加えるなら、本作は台詞にはいわゆる沖縄語・ウチナーグチがメインに使われていて「分かりにくい」という声があるが、これはリアリティの面もあるだろうが、やはり共感を誘うよりも人々の苛立ちを感じさせるためだと考えているし、実際上手くいっている。これが分かりやすくなると説明台詞にみえて肝心な心情が伝わりにくくなるからだ。
サテ本作は、そうゆう現実に注目して評価をする者と、作劇に瑕疵を見つけて批判する者との二つに分かれているのが現状で、特に後者の批判ポイントは「オンちゃんが見つけた戦果とは何だったのか?」がブレて良く分からない所だ。
しかし、こうした批判は本作をミステリーとして観ているから起こる印象であって、それをしなければアッサリと読み解くことができる。
もっと具体的に言うなら、「オンちゃんはどうなった?」ではなく「オンちゃんはどんな人物だったのか?」でほぼ解ける。
それでは、どんな人物だったのか?は本作でちゃんと描写されている。それはヤマコの回想シーンでオンちゃんが「学校を作りたい」と。
ここでオンちゃんが語っているのは、もちろん先の話「未来」の話だが、もっと強く言えば「希望」を語っている。
グスク、ヤマコ、レイが過酷な現実でもがいている中でオンちゃんは「これも、いつかは終わる」と考えている。
つまり、彼は英雄としての資質をもった若者なのだ。
そして、皆と散り散りになったあの時に、「未来・希望」を見つけた。彼にとっての「良きせぬ戦果」がソレだ。
そして、グスク、ヤマコ、レイの側にはいつも「希望」が付き添えていた事になる。皆が仲良く暮らせる世の中をだ。
こうゆう読み解き方をすれば本作のドラマはリアリズムよりもロマネスク側にある。
ただ、そこがウィークポイントでもある。

具体的な指摘をすれば、オンちゃんを理想的な人間像として描きすぎて人としてのリアリティが薄い。キャラ造形としての陰影がなされておらず、現実にあった出来事に対して印象が弱い、超弱い。
でも、それをどうやって改善すべきかが自分には思いつかないのもある。せいぜい、記憶に残るクセを作るとか、あるいはコザ暴動の前にオンちゃんの最後のシーンを情報としてやって暴動の後に別の視点からオンちゃんの最後をまたやるくらいしかない。
とまぁ、取り留めなく終わる。
あ、最後にまた付け加えておくと、本作の根幹にかかわるタイトルの『宝島』は沖縄戦以降民衆のよりどころになっている「命こそ宝」のウチナーグチ、「命どぅ宝」からきているのは誰でも察することができるが念のため。
劇場で鑑賞。
(画像は映画.com)
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