ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]


まぁ、面白かったね。
前作が自分の苦手なラブコメベースだったのに対して本作は下品だがアクションコメディベースなので今回はイライラせずにスムーズに鑑賞できた。
そしていつも通り、ほぼポール・トーマス・アンダーソン作品でした。
メンドイのであとはポーちゃんでとおします。
それはさておき先ず内容は、かつては世を騒がせた極左集団で活動していたが、いまや落ちぶれて一人娘の行動にやきもきしながら怠惰な日々を過ごすレオナルド・ディカプリオ演じるボブに、かつて彼の妻に因縁がある、元民間刑務所の所長であり極右集団にも属するショーン・ペン演じるロックジョーがボブの娘ウィラに目をつけられた事から怠惰な日々は終わり、ボブとウィラはロックジョーのため別れ別れとなり、執拗な追跡をかわしながらそれぞれが変わってゆく……という流れ。
さて、ポーちゃん作品と言えば、キャラの内面をセリフや映像で語らない・説明しない表現スタイルとソコに、さりげない過去作品(映画)のオマージュと時代性語りがあるが、今回はそこはやらず、いつもモチーフとしてある「男性性の解体」をチョビっと語っておきたい。
まぁ、「男性性の解体」と横行に書いたが、それはポーちゃんにとっては、男をみっともない存在として描くのと同じ。なので、本作ではそれを政治に向けている。「極左と極右における政治的男性性の解体、つまりはおちょくり」なわけだ。
でも、ボブ演じるディカプリオは見たまんまで、わかりやすいが、ロックジョー演じるペンは演技があまりにも上手すぎて逆に分かりにくくなっているきらいがある。味があり過ぎる。


両者ともしょーもない男なのに。
それでは、いつものポーちゃん作品なのかと言えばそうでもなく、劇中で滅びないまでも悪は退けるし、この手の作品にあるヒロイズム・英雄主義もありの、それを導くメンター・師匠も存在する。
本作でのヒーローはボブの娘であり、ロックジョーと因縁がある。ウィラがそれにあたる。

観た者ならピンとくるだろうが、メンターはもちろん、センセーを演じるベニチオ・デル・トロのこと。

つまりは、ヒーロー誕生のエピソードなわけだ。
もうひとつ、ポーちゃんらしくない。と言えば、ラストの締め。いつもどおりなら、ウィラとボブの件をやってからロックジョーで締めそうだが、本作ではロックジョーをやってからボブとウィラで締めている。
とまぁ、前作同様にダークさよりもライトさにちょっと重きを置いている。
これを「大衆にすり寄った」と言うのも簡単だが、自分には別の気持ちもあって、いきなりぶっ飛ぶが、かつてジョン・カサベテスという俳優兼映画監督をしていた者があって、その監督作品もいわゆるツウ好みの評価がされていたが、そんな彼が娯楽を意識して撮ったのがコノ作品だった。

特にラストシーンはカサベテス作を観ているファンにとっては違和感を感じただろうし、実際にその解釈も色々となされている。
しかし、カサベテスの真意がどこにあったにせよ、あのラストシーンでツウ好みと評されていたカサベテスがはじめて大衆と接点がもて、『グロリア』が彼の代表作として残ったように。本作もポーちゃんこと、ポール・トーマス・アンダーソンがはじめて大衆と接点を持てた最初の作品として名が残るのは間違いない。

ところで、今回はショーン・ペンがポーちゃんにとってのダニエル・デイ=ルイスなら、さしずめレオナルド・ディカプリオはフィリップ・シーモア・ホフマンなのだろうな。
最後にぶち壊して終了。
劇場で鑑賞。
(画像はimdbより)


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