ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
ストーリー
ロンドンから東京に向う国際線が、白夜のシベリアのとある空港に不時着した。乗客の世界的なダンサー、ニコライ(ミハイル・バリシニコフ)は負傷しながらも、身元のわかるパスポートやクレジットカードをちぎってトイレに流した。彼は8年前、人生と芸術の自由を求めてアメリカに亡命し、祖国ソ連では犯罪者となっているのだ。
1985年製作/アメリカ
原題:White Night
スタッフ
監督 テイラー・ハックフォード
脚本 ジェームズ・ゴールドマン エリック・ヒューズ
原案 ジェームズ・ゴールドマン
製作 テイラー・ハックフォード ウィリアム・S・ギルモア
撮影 デビッド・ワトキン
美術 フィリップ・ハリソン
音楽 ミシェル・コロンビエ
音楽監修 フィル・ラモン映画.comより引用
今回はネタバレなしの適当感想モード。
ながら観シリーズ、今回は去年BSで放送されていたコノ作品だが、初観のレンタルでは、まったくピンとこなかった思い出があったので今観直したら感情も変わるかなと考えたので、ひさしぶりに鑑賞。
最初ピンとこなかったのは、この作品名は一体何がやりたかったのかがサッパリ分からなかったから。政治スリラーでもなければ感動ドラマとも違う感覚だったから。あえていえば反ソのプロパガンダ映画という認識どまり。
本作公開は1985年だが、その翌年86年に米ソの核軍縮を話し合ったレイクキャビット会談が行われる前なので、当時のソ連の指導者だったゴルバチョフ書記長は後にノーベル平和賞を受賞した平和主義なイメージではなく、まだ悪として西側にされていたからだろう。だからアメリカ本国ではヒットした……らしい。
それじゃ、本作は何がやりたかったのかというと、初観のあとにチョコッと調べてみたら、どうやらコレは主演のミハイル・バリシニコフを愉しむための映画だった……らしい。
ミハイル・バリシニコフことミーシャはマジもんのソビエト連邦のクラッシック・バレエダンサーであったが、クラシックの形式にとらわれない自由なダンス(バレエ)を-- 当時のソ連ではクラシックでさえ反体制の要素は書き換えられた -- したくて、ソ連から西側へ亡命。そして文字通り従来のクラシックの形式にとらわれないモダンダンス(バレエ)にも挑戦してきた人物。つまり本作の主役ニコライとほぼ同じ。なので、作中でのニコライに対する表現への抑圧とそこからの苦悩は映画のために戯画化されているとはいえ、当時のミーシャと似た状況だったのだろう。
でも、それならミーシャの半生を架空の物語にして、そのまま映像化すれば良いものの、どうして面白くもない政治スリラー……ぽい味付けをしたのか?その答えもまたミーシャにある。
ココでは、ニコライの監視役としてベトナム戦争の懲役を拒否してソ連に亡命してきたレイモンドというアメリカ人があてがわれるが、その彼は本職はタップダンサーという設定になっている。演じたのも俳優でありタップダンサーでもあるグレゴリー・ハインズ。
その彼が物語上の展開でニコライとの友情を育む過程でバレエとタップダンスで踊り合ってコラボレーションをするのが最大の見所となっている。
つまり、バレエダンサーであるミーシャにバレエではなくタップダンス、つまりモダンダスンスをさらに超えたポスト・モダンダンスをさせたかった。もうこれしかない。
この後にミーシャは本格的にポスト・モダンダンスにも挑戦してゆくのだが、本作公開時にはまだダンス(バレエ)のみだったので、おそらくは本作が事の始まりなのだ。
これは個人的な邪推だが、クラシックだろうがモダンだろうが、バレエだけではアメリカ一般大衆にはソッポされると考えたプロデューサー等が興味をひくために、反ソ風味を利かせた、こんな歪な物語になったのであろう。そして、その辺りであの時の自分にはピンとくるものがなかったのだろう。とは納得した。でも、これはマーケティングから導き出されたものから売り物としてパッケージされたので、ドラマとまったく連動していない。だからヘンな出来上がりになっている。
それでは、今観なおしたら別の感情も湧いてくるだろうと考えたが……
な~んも無かった。
お後がよろしいようで。
CATVで鑑賞。