ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
離島から家出し、東京にやって来た高校生の森嶋帆高。生活はすぐに困窮して飛び込んだのは須賀という男に助けてもらった縁ではじめた怪しげなオカルト雑誌のライターの仕事だった。連日雨が振り続ける中、帆高はあるきっかけで天野陽菜という少女と出会う。都会の片隅で小学生の弟と2人きりで暮らす彼女には不思議な能力、「祈ることで空を晴れにできる」をもっていた。
新海誠監督
愚かと云えば常に愚かであり又愚かであった僕である故、僕の生き方にただ一つでも人並の信条があったとすれば、それは「後悔すべからず」ということであった。立派なことだから後悔しないと云うのではない。愚かだけれども、後悔してみても、所詮立直ることの出来ない自分だから後悔すべからず、という、いわば祈りに似た愚か者の情熱にすぎない
はじめに、セカイ系についての考えを書くべきだろうが、元々アレは自分の論旨を有利に導くため哲学者が作った定義にしかすぎない。そんなモノをアレヤコレヤと語る必要性はない。というのが自分の考えだ。
ただ、セカイ系なるものが男子の閉塞感を具象化した概念なのはそうなのかも知れない。身も蓋も無い話、いつだって若者は世の中に不満と不安をかかえているのだから。
しかし1970年代までなら、封建的とか父権的とかでラベルを張ることができたが、1985年から1991年までの日本で起こったバブル景気によるバブル時代の終焉後になるとそんなモノが散逸してしまった現在では、何に対して閉塞感を感じればいいのかが分からない。ましてやいじめが潜在化した現在だと反抗的な態度は大人だけではなく仲間からの反発もまぬがれない。窮屈だ。
だからこそ架空のセカイ系が所謂オタクだけではなく一般にも浸透していったのだろう。そうでなければ『エヴァ』、『ハルヒ』、『まどか』などがこれほどの指示を得るとは思えないからだ。設定云々は所詮、現実を基にしているか非現実を使っているかに過ぎないのだから。
早い話が、セカイ系とはかつての反体制な心情を綴ったアメリカン・ニューシネマの変種だといえる。
そして、それを踏まえれば『天気の子』のドラマはマイク・ニコルズ監督『卒業』と同じだといえる。
もっとも、ここで『卒業』を意識したわけではなさそうだ。むしろ今作は是枝裕和監督作品、特に『万引き家族』の影響が大きい。
新海監督作品は背景を美しく描くが、今作はそれが抑えめで、逆に例の廃ビルを中心にその汚さを雨で濡らしたりすることで詩情を強調している。こうしたは詩情は是枝監督が『万引き家族』が見えない花火等で使っていたし、『天気の子』で陽菜がポテトチップスとチキンラーメン作る料理は『万引き家族』でのコロッケとカップカレーうどんの新海監督なりの変換ともいえる。
なりより、『万引き家族』の物語が、「世間の正しさが、絆をもった者たちを解体してゆく」だったのに対して『天気の子』は「世間の正しさを壊して、その絆を作る」物語だからだ。正反対で描いているのだ。
現実が俺たちを潰すなら、そういった現実そのものを潰す!のが、今作なのだ。
だから、『天気の子』は新海監督なりの『万引き家族』に対する返し歌ともいえる。それで云えば『卒業』との相似は単なる偶然なのだが、実はその「芯」は同じだ。
「芯」とは、そうしたドラマを動かすエンジンは主人公である帆高の若さゆえの衝動なのだ。離島から家出をしたのもそうゆう事でしかない。ーー もちろん理由は描かれていないが、冒頭で彼が読んでいた小説の内容を知っていれば、どうして雨なのか?帆高と須賀の関係性、クライマックスの展開までも察することができる。まさに『天気の子』は新海監督にとってのその小説なのだろう。
そして、陽菜と知り合ったのも、陽菜を好きになったのも、陽菜にあんな事をつぶやいたのも、すべてが衝動で、それだけでドラマを動かしている そこに理屈は無いのだ。 -- 前半とクライマックスでそれを象徴する小道具も出てくる -- それが青春とも云える。
だが、そうした衝動は次の展開では、別の衝動へとシフトチェンジをする。
小説家で随筆家でもあった坂口安吾は『青春論』で、剣豪宮本武蔵が幾多の勝負に打ち勝ったのは戦術なのではなく、その場での必死からの衝動だったと書いた。「武蔵の剣術は青春そのものの剣術であった。」だとも。その正しさはどうでもいいのだ。それが安吾が考えた若さなのだから。
そして帆高はクライマックスで、内に沸き上がる必死の衝動にしたがい、それをやり遂げるのだ。
もちろん、そうゆうのは大人から見れば「わがまま」であり、「甘ったれるな」でもあり、「ソープへ行け」でしかない。要するに「愚か」だ。
しかしその「愚か」さが今現在、窮屈に日々を送っている人々の心を揺り動かす「美しさ」も含んでいるのだ。それがある者には人には同調し、または憧憬を起こし、それが通り過ぎた者には追慕をさせる。
『天気の子』はそんな映画なのだ。