ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
今日のポエム
愛欲とは抵抗なり!
映画とはポエムです!ポエムとは映画でもあります。それでは大いにポエムちゃいましょう!
そして、今回は
『愛のコリーダ』
そして、今回のキーワードは。
セカイ系としてのオオシマ2!
ネタバレがちょこっとあるし。やっぱり小難しいよ。
きっかけは荒井晴彦監督『火口のふたり』の評での新海誠監督『天気の子』との共通点に対する論評だった。
『火口のふたり』は再開した元夫婦が性行為をしまくるという、ありていもないほどのポルノグラフィティなのだが、それを意識するなら、どうしたって1976年の『愛のコリーダ』を上げないといけない。何故ならの原作も、同じ様な題材だったので、その元である『愛のコリーダ』を知らないとはどうしても考えられないからだ。
もっとも、こちらはハードコアポルノだ。ぼかしが満載だ。
だから、世界がどうであろうと「キミとボク」の閉じた関係で進行するいわゆるセカイ系として『天気の子』と『火口のふたり』が繋がるなら、『火口のふたり』が影響をうけたであろう『愛のコリーダ』だって、当然に結ばれるはずなのだ。
そして、意外にも『天気の子』はドラマとしてのセカイ系視点アプローチは『火口のふたり』よりも『愛のコリーダ』にけっこう似通っているのだ。-- もっとも、荒井監督が『愛のコリーダ』を知らないとはあまりにも白々しいので『火口のふたり』と前作『この国の空』とは違うアプローチをするのは当然なのだが。
『愛のコリーダ』は昭和初期に実際にあった愛人を殺した後にその男性器を切り取るという猟奇殺人阿部定事件を扱っていて、そのために一般的にはハードコアポルノと知られていて、ちょっと公開当時の話題を憶えている人なら、過激な性的描写表現で大島渚が表現の自由をかけて映倫と闘った思い出から、『愛のコリーダ』のメッセージが表現の自由を掲げていると考えがちだが、大島の意図したところはそこではないと自分はみている。
それはクライマックス直前のまさに男性器が切り取られる前に藤竜也演じる吉蔵が散髪から住まいに戻る途中で出兵する兵士とそれを見送る人々の姿に出くわすシーンだ。
ここで支配者と被支配者との間に知らず知らずに契約される。覇権・ヘモゲニーに対して愛欲で抵抗しているのだ。
ヘモゲニーとはマルクス主義者が提唱した概念で、支配者と被支配者との間に暗黙のうちに交わされる合意みたいなものだ。支配者から被支配者へ合意を求めることもあれば、被支配者から支配者へ自然に合意を求める二つのパターンがあるが、どちらにせよ結果としては支配者から被支配者への服従の構造は変わらない。大島はそれに対して作品を通じて異議申し立てをしたのだ。これは「キミとボク」のセカイ系で繰り返し使われたドラマツルギーだ。『天気の子』でいえば暗黙の合意を「天気」で置き換えただけであり、台詞でいうところの「大人になれ」に集約されているところだ。
さらに大島はそうしたヘモゲニーに「男性的」なものを感じている。支配者と被支配者との暗黙の合意 → 男性的。とみているので、その部分を強烈に批判している。それはもちろん吉蔵の男性器が切り取られるシーンだ。これは大島監督の『戦場のメリークリスマス』などにも表れたモチーフだ。だから、自分勝手な見立てとは考えてはいない。それは強烈な男性的よりも中性的な雰囲気で展開するセカイ系と同調するところでもある。そして『天気の子』に限らず。男性的というより中性的な雰囲気が強い新海誠監督にも共通する。
もちろんこれは『愛のコリーダ』を源流とするのなら『火口のふたり』を含む数々の派生作品からの要素が偶々セカイ系というものに蓄積して濃縮しただけなのだが、セカイ系のはじめもセックスを売りにしているアダルトゲーム、いわゆるエロゲから来ていることを考えれば、当然と云えば当然なのだ。
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