ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
九州の静かな町で生活している17歳の岩戸鈴芽は、”扉”を探しているという青年、宗像草太に出会う。草太の後を追って山中の廃虚にたどり着いた鈴芽は、そこにあった古い扉に手を伸ばす。やがて、日本各地で扉が開き始めるが、それらの扉は向こう側から災いをもたらすのだという。鈴芽は、災いの元となる扉を閉めるために旅立つ。
シネマトゥデイより引用
今回はネタバレスレスレの誉め解説モード
注意:今回は核心的なネタバレを避けていますが、作品を楽しみたい方には読まない事をお薦めします。
いや、凄かった。
表向きには、いつもの美男美女のスペクタクル込みのラブストーリーなのだが、その中身は恐ろしく挑戦的だった。
新海作品はデビュー作『ほしのこえ』から十代の男女の恋愛模様を描きつつ、いつも最後に「大丈夫」。と語ってきた人ではあるのだが、本作はそれを実際に起こった「厄災」でするのだ。アノ「厄災」のその後を描いている。まずは、その挑戦と創作的勇気に敬意を払うのは当然だろう。なにせ同じことをしているのは新海とは真逆ともいえるイーストウッドの『ヒア・アフター』(2010) くらいなのだから。
白々しいが、ネタバレになるので『ヒア・アフター』についてはノーコメントだ。
さてと、話をチョイと戻すと、本作キーポイントは主人公である、岩戸鈴芽(いわと すずめ)のキャラ設定の複雑さにある。子供の頃に「厄災」を体験したがために、彼女は、「自分が普通とは無縁だ」とどこか醒めたところがある。作中で「死ぬなんて怖くない!」とか、「人の生き死になんて小さい頃からただの運だと思ってきた」とか言っているからだ。母親代わりに彼女を育ててきた叔母の岩戸環(いわと たまき)とは表面上はよくても内実はギクシャクしていた。ヒント:ドライブイン
しかし表向きは「あきらめて」いるのに内心は欲している。ヒント:観覧車
ようするに、鈴芽は自分の感情を素直に表すことができないキャラになっている。心のピースがどこかひとつふたつ欠けている。そんな感じ。
そこから、本作のドラマのポイントは、その鈴芽が愛媛の千果(ちか)と神戸のルミさん等の家にやっかいになることで、鈴芽が普通とは何かということを体感してゆき、欠けていた心のピースをうめて、自身の感情に素直になってゆくことなのだ。
「愛する人と一緒に普通に暮らしたい」と彼女は決意する。とはそうゆうことで、東京からクライマックスの流れはそうなっている。
余談だが、本作ではあるものを追って鈴芽は宮崎→愛媛→神戸と旅をしてゆくが、これもクライマックスへの布石になっている。だって南海トラフにそっているから。← 大ヒント!
実は個人的に、オープニングとこの移動でクライマックスになにがあるのかが、予想できてしまったのよ。
そして、「普通とは無縁」と「あきらめて」いるのは鈴芽だけではない。イスになってしまった宗像草太(むなかた そうた)もそうゆう設定になっている。女を何人もころがしていそうなある人物に「あいつは自分のあつかいが雑なんだよ」と言わせているから。
さらに、女を何人もころがしていそうなある人物は環と鈴芽との関係を「闇深けー」と看破している。洞察力が高いのか、それともエスパーか。
だから、鈴芽と草太はたがいに惹かれてゆく。
ここまできて、クライマックスへといたれば、本作が何をやろうとしているのかが見えてくる。簡単にいってしまえまば、普通の営みと、それを一瞬で奪ってしまう「厄災」の理不尽さの紙一重で日本人(人)は生きているという現実そのもの。
さて、これが「厄災」に実際にあった人々だけではなくて、自分達もふくむ現在の我々のドラマなのだと断言できるのは新海監督自らこの作品はポストアポカリプスと公言しているから。
災害については、アポカリプス(終末)後の映画である、という気分で作りたい。来たるべき厄災を恐れるのではなく、厄災がどうしようもなくべったりと日常に貼りついている、そうゆう世界である。
新海誠本より引用
現在日本は地震活動期に入ったのは専門家が認めている。新海の発言はそれを踏まえてなのは間違いはない。
そして、主人公の名が「すずめ」なのもおそらくは意味がある。
1657年明暦の大火が江戸の街中を襲って20年後、江戸名所を記した地誌、今で言うガイドブックが登場した、その名が「江戸雀」。
「江戸雀」には名所と共に元禄以前の江戸庶民の風俗も記されいて当時の資料としての価値がある。
つまり、雀=江戸庶民の風俗=庶民=自分達の式が成り立つわけで、本作は我々のドラマでもあるというのが見えてくる。これは新海監督が国文科卒なので容易に想像できる。
すずめとは私たちのことでもあるのだ。
そう、「厄災」とは、あの歴史的事実だけではなく、誰でも起こりえることでもある。
自分達は厄災の世界と共に暮らしている。
それにあって心のピースが埋まらなくなってしまった者、これからそうなってしまうかもしれない者たちに対して、「あなたは大丈夫」とささやくのである。
これは凄い……としかいうしかないでしょ。
それは比喩ではなくて、直接でなければ意味をなさない。
そして、それを忘れるのではなく、「戸締り」と言い換える優しさ……
新海誠作品についてまわる、ある種の青臭さ、もっと直接的な言い方をすれば童貞臭さは、つねに彼について回る揶揄や批判、好意的な評価でもオタク的感性の親和性・共感性とのかかわりで今まで語られてきたけれども、本作を観てしまった後では、監督自身はそれを隠さずにむしろ表にだして鍛え上げて、最強の武器にしてしまったのではないかととも思える。
極めてしまった瞬間を見た気がする。
まとめちゃうと、泣きましたよりも、ただただ圧倒されました。
とまぁ、ほぼ絶賛モードなのだけども、個人的にはチョット不満もある……
どこかで、超イケメンに成長したセンパイの姿を見たかったなっと……
もう、あの女を何人かころがしてそうな奴は、声変りをしたセンパイだと思う事にします。(強引!)
お後がよろしいようで。
劇場で鑑賞。