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えいざつき ~映画と世情と日常と~

主に映画の思い出について書きますが。基本は自分の思った事をつまり妄言を書きます。

書評:春日太一 著 市川昆と『犬神家の一族』の感想文 後編

書評 思い出話

[誤字脱修正有][敬称略]


春日太一 著 市川昆と『犬神家の一族』の感想文の続きをかきます。

 


こちらの続きになります。

<書評>春日太一 著 市川昆と『犬神家の一族』の感想文 前編 

それでは『悪魔の手鞠歌』 (1977) と『犬神家の一族』 (1976) に入ります。


  〇『悪魔の手鞠歌』&『犬神家の一族


春日著にも記述されているとおり『犬神家の一族』は「ミステリーの退屈性」を払拭した映画でもある。そして春日太一が絶賛する『悪魔の手鞠歌』も最初はミステリーとして観終わった後は濃密なドラマとして楽しめる。その完成度と対をなす映画といえば自分には『オリエント急行殺人事件』 (1974) しか思い出せない。


映画 オリエント急行殺人事件 - allcinema 

というよりもサスペンスではなく純粋な推理もので今でも映画ファンとミステリーファン両方に評価されている洋画はこれだけといっても良い。

アガサ・クリスティ著作は何度も映像化されている。 --ちょっと変わった人気ショッカー映画SAWシリーズは明かにクリスティの「ある著作」をヒントにしているのは確かだ。-- しかし、今だにこれに匹敵する推理ものは自分の贔屓もあるだろうが『悪魔の手鞠歌』だろう。どちらも最初は推理として二度目はドラマとして楽しめる。それは両作ともシェークスピアの三大悲劇的なシュチエーションが内包されているから “劇的” に感じられる。

翌年に公開された『犬神家の一族』の「もしかしたら」反省なのかもしれない。春日太一の指摘どおり 『犬神家』は “技巧が走りずぎた” 感があるからだ。だからこそ次の『悪魔の手鞠歌』の「良さ」が引き立つのだが。

ちなみに自分の印象として市川金田一の推理は「お祓い」だと思っていた。金田一が推理という名の「お祓い」をして皆の溜飲が下がるそんなイメージをもっていた。これは『犬神家の一族』で真犯人が事を起こすときに三國連太郎が演じる犬神佐平衛の手を動かすカットが入るからで、だから「金田一は天使」は最初は納得はできなかった。

もっとも、これは参考文献に上がっているキネマ旬報社『シネアスト 市川昆』を読み直した際でのご本人と映画評論家の双葉十三郎と脚本の日高真也の鼎談で「金田一は神様」とあったからその指摘は間違ってはいない。 --人に関わらないという意味では天使も神様も同じだ。-- そこで「どうして金田一の髪はフケだらけなのか?」の妙な謎も解ける。自身が都合よく忘れていただけだ。そうするとあの金田一はポアロと違って本当に何もしていない、だから春日の著作にある「金田一はナレーター」の指摘はかなり面白いし的確なので「うん、うん」と頷く。

市川金田一の推理は犯行と共に真犯人の「感情」も「説明」していたのだから。

個人としては『獄門島』 (1977) の依頼が本人ではなく友人を介して行なわれたのか。そして推理でご都合主義にも関わらずどうして不満よりも満足したか。または『女王蜂』 (1978) での唐突な終盤の展開が描写されたのかをはっきりと理解した。まさしく観ている人に感情移入をさせるために「感情」を「説明」していたからだ。

市川金田一の役割は推理というよりもかなり高度な説明セリフだ。

本来なら「水と油」の関係である「推理とドラマ」を融合させるために金田一が必要だった。と……





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