えいざつき ~元映画ブログだったポエマーの戯言~

批評というよりも、それで思い出した事を書きます。そして妄想が暴走してポエムになります。

オッペンハイマー

ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]

ヤ〜レン、ノーランノーランノーランノーランノーランノーラン~ノーラン♫

 

ハイ!ハイ!

 

今日もサラッと終わらせたい。

 

けど、今回で確信した。前に自分はノーランをアーティストではなくエンタティナーだと言っていたが、本作でのドラマから彼は人々のパトス(感情)に訴えるモノではなくてロゴス(理性)に訴えるタイプな作品を撮る監督さんだと言うこと。だから映画ファンのロゴスタイプにはビンビンと来るが、パトスタイプには、無味乾燥、白ける、何じゃコリャー!の2極に分かれて喧々諤々考察祭りになっちゃう。

 

それじゃアンタはどっちよ?と問われれば捻くれながらもパトスタイプを自覚しています。

 

それはサテ置き結論を言えば、本作はオッペンハイマーの自伝でも評伝でもないし、原爆の開発秘話でもない、もっと別のモノを描いているとういう事だ。

 

映画ファン向けに語れば、本作のオッペンハイマーは形の無いものをこの世に具現化したいクリエイターとしての業を背負った『風立ちぬ』(2013)の堀越二郎と、具現化はしたが、そのあまりにも巨大な力に恐れおののく『ゴジラ』(1954)の芹沢大助の混合だ。

 

 

さらにぶっちゃけて、自ブログの『ゴジラ』(1954)で書いたのと同じ本作も対話・ディスカッション形式のドラマになっている。

 

ゴジラ (1954年の映画) - Wikipedia

 

それは後でガッツリと語るとして、チョイと結論を語れば、本作は公開後一部から広島と長崎を描いていないと懸念が示されたが、おそらくノーランがやろうとしたのは「自らの文明を滅ぼしかねない禁忌の技術を持ってしまった人間達」であり、その問題意識を観客(人類)に共有してもらいたかったからだ。だから、そこは最小限度の描写に留めるしかなかったのだろう。

 

その確証が自分にあるのは、本作にも描かれた人類初の核爆発であるトリニティ実験のシーンであり、その実験対象が爆縮型であるからだ。

 

それには日本に落とされた原爆が違うタイプ・型について語る必要がある。広島のはリトルボーイと呼ばれ長崎のはファットマンと呼ばれた理由だ。前提として核分裂は核物質がドミノ倒し的な連鎖反応をさせる必要があるが、それにはそれにいたる質量を揃えなければそれは起らない、これを臨界質量という。

 

まず広島のリトルボーイ、これはガンバレル型と言われている。超アバウトに解説すれば原爆を爆発させるには核物質を核分裂を急激に起こす臨界質量にしなければならない。-- この辺りは原子核を結びつける中性子の振る舞いとか色々とあるけど今回は無視!-- ここも超アバウトに言っちゃば通常は同じ核物質を2つに分割して起爆する際に合体すれば臨界質量に達してしまう。これがガンバレル型でリトルボーイに使われたのもコレ。

 

そして長崎のファットマン、ここも超アバウトに核分裂を起こす一歩手前の核物質 -- ここでも分質によって中性子の量や振る舞いが違う同位体アイソトープという基準があるが、これも無視や!-- を球型の容器の真ん中に置き周りを爆薬で覆い、起爆する際にその爆薬を一斉に爆発、その圧力で一歩手前の核物質を核分裂が起きる物質に変えて、いきなり臨界質量に達しさせて爆発させるのが爆縮型。

 

そして本作のシーンで描かれたトリニティ実験は爆縮型であってガンバレル型ではない。つまり広島については作品からは薄っすらと触れる程度で本筋ではないということ。

 

だから本筋は爆縮型にある、なぜならこれは現在にいたる核兵器の基盤となっていている技術だから。核兵器・水爆は核分裂ではなく核融合なのだが、現在の状況でそれを起こすには原爆の爆発による圧力で起こすしかできず、それを効率よくできるのは爆縮型だからだ。-- 本作でもチョコっとありました。

 

なので、なのだからこそ本作ラストのオッペンハイマーが見るあのイメージなのだ。

 

しかし、その恐怖はオッペンハイマー特殊相対性理論を発見した白髪白髭のおじいちゃん -- いちおう指摘しておくとコノおじいちゃんは実在する人物というよりもオッペンハイマーにとっての「良心」の象徴となっている -- しか共有されずに、他の面々には新たな兵器として認定しかなく、それによって生まれるであろう新たな戦略状況にどう組み込んでゆくかという近視眼的な視点しかない。赤狩りの件はそうゆう意味になる。

 

‐‐ もっともかなりゲスな言い方は、自らのしでかしたことに打ち震えるオッペンハイマーからその成果を奪おうとしたアヤツ(一般人)の倫理観の薄さを感じさせる件だろう。似た経験を二回もしているので良くわかる。

 

事実、核兵器の誕生はそれまでの戦争史の風景を変えた強烈な出来事で、それ以降軍事では兵站にしか使われなかった数学がゲーム理論という学術になり、それが実際の戦略・戦術に使われるようになり。また軍事力が多少弱くても核さえ持てば大国に渡り合えるイニシアティブも持つのと同じ力をもたらした。

 

それが核兵器誕生以降の世界になる。

 

核の炎で焼きつくされなかったが、やはりあの日以来「世界は変わった」のだ。

 

本作で描かれたドラマとは、まさしくソレ。原爆というよりも、それを含めて核を批判として捉えているので、現代史視点ではなくて科学史・文明史と呼ばれるべき視点で描かれている。

 

さて後述に入る、それを時系列に描かずにノーランお得意のシャッフルにしたのは「あなたはどう考えますか?」の問いかけだ。時系列にすると物語・ストーリーや人物・キャラクターが作り手によって印象操作になってしまうおそれがあるが、シャッフルでそれを避けている。

 

だから 、これは我々(観客)と映画(ノーラン)との対話・ディスカッション形式になっていている。

 

だから知的。

 

それが本作。

 

それがロゴスタイプには感動と受け取るが、自分のようなパトスタイプには何か痼を感じる出来になっていている。

 

オッペンハイマー

嗚呼、今回は軽くすませるつもりだったが、結構長くなってしまった。

 

ヤーレンノーランノーランノーラン~(以下フェイドアウト)

 

劇場で観賞。

 

スタッフ

監督:クリストファー・ノーラン
製作:エマ・トーマス チャールズ・ローベン クリストファー・ノーラン
製作総指揮:J・デビッド・ワーゴ ジェームズ・ウッズ トーマス・ヘイスリップ
原作:カイ・バード マーティン・J・シャーウィン
脚本:クリストファー・ノーラン
撮影:ホイテ・バン・ホイテマ
美術:ルース・デ・ヨンク
衣装:エレン・マイロニック
編集:ジェニファー・レイム
音楽:ルドウィグ・ゴランソン

映画.comより

 

 

 

 

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