えいざつき ~元映画ブログだったポエマーの戯言~

批評というよりも、それで思い出した事を書きます。そして妄想が暴走してポエムになります。

晩酌で観た『博奕打ち 総長賭博』

ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]

義理と人情を秤にかけたら義理が重たい、この現実。

 

こんにちはユーセです。

 

さて某日、『すずめの戸締り』が地上波初放送でネット界隈が賑やかだったのだが、その際に自分が観直してていたのがコノ作品。

 

監督 山下耕作

脚本 笠原和夫

主演 鶴田浩二

共演 若山富三郎藤純子金子信雄

 

今では説明する必要がないほど観てはいなくとも名だけは知っている伝説的な作品。

 

内容を掻い摘むと、某一家の組長が倒れ、跡継ぎ問題が起こり事実上一家を率いていた鶴田に声が上がるが、彼にとってこの一家とは外様の関係にあるのでそれを辞退して、代わりに鶴田の兄弟分で現在は刑務所に服役中の一家筋の若山を推す。だが、組長とその兄弟分にある金子がそれを拒否して代わりに娘婿の男を跡継ぎに決めて、それで進めてゆくうちに若山が出所してそこからどうにもならない悲劇へと転がってゆく。

 

ジャンルとしては1963年『人生劇場 飛車角』からはじまった当時、東映の主力だった大正から昭和初期(大戦前)を舞台にヤクザ、というか、暴れ者社会から外れたところにあるが、信義を貫き義のために命を惜しまない男たち、すなわち任侠道に生きる男たちを情感たっぷりに描いた任侠モノに属するが、コノ作品はそれまでのたっぷりな情感を一切排除して重苦しさだけで進行・展開した作りになっていていて、これが、後の東映の主力になる実録路線へのターニングポイント的な位置にあるのがコレ。

 

きっかけは監督の山下が脚本の笠原に「これまでとは逆のモノをやりたい」とこぼし、同じ考えだった笠原と意気投合して会社を騙して作った経緯がある。

 

しかし、当時は正月興行として公開されたが、興行としては失敗して評価もいつものプログラムピクチャーとして埋没された。

 

が、コレが伝説的作品となったのは一年後に芥川賞受賞作家三島由紀夫が「ギリシャ悲劇のようだ」と雑誌 映画芸術で絶賛して、それから再評価されていった。

 

とまぁ、ここまではWikipediaにもある話。

 

名作なので、ケチをつけるのが難しいのであるが、やはり任侠モノなので昭和を生きてきた者ならともかく平成の者には「盃を割る」行為や義兄弟の関係が、つまりヤクザ社会における兄弟分の考えが分かりにくいかも知れない。

 

任侠の世界も基本は上下を中心とした縦社会で、兄弟関係もソノ組織内で割り当てられたり、また兄貴が気に入って弟分にしたりするが、コノ作品での鶴田と若山は属する組織(一家)が違うので横の繋がりとしての義兄弟になっていている。(もちろん、一家どおしの筋は通してだ)だから、縦社会の義兄弟より結びつきはより粘着力が強い。

 

早い話あれは三國志における「桃園の誓い」と同じ。義兄弟になったからには弟分は兄貴分に逆らうことはできないし兄貴分もまた弟分に何かあったら必ず助ける、これが義兄弟。

 

だから、一つずれると修復ができない事態に陥る。

 

関羽張飛を殺すような事態になる訳だ。

 

コノ作品における悲劇とは筋を通さねばいけない社会に邪な陰謀が一つ入っただけですべて破壊されてしまうドラマなのだ。

 

でも、三島は「ギリシャ悲劇のようだ」と絶賛した。ギリシャ悲劇なら詩情が、文字どおり美しい瞬間がなければならないが、重苦しさが漂うコノ作品のどこにあるのか?

 

実は、詩情とは、美しい瞬間とはラストシーンここにある。

 

博奕打ち 総長賭博

裁判長が判決を下す、これが美しい瞬間!

 

もちろん、その伏線として藤純子に「人殺し」といわせ鶴田も「ケチな人殺し」といわせて、ラストにドンとこれをのせている。

 

コノ作品は良い脚本でもあるが、演出もそこをちゃんと読んでいて主文を告げる裁判長の口調をオペラのように浪々と呼び上げて盛り上げるのだ。

 

これが、三島がギリシャ悲劇に例えた詩情。

 

博奕打ち 総長賭博

かくして、コノ作品は伝説となった。

 

VODで鑑賞。

 

スタッフ

監督:山下耕作
脚本:笠原和夫
企画:俊藤浩滋 橋本慶一
撮影:山岸長樹
美術:富田治郎
音楽:津島利章
録音:野津裕男
照明:井上孝二
編集:宮本信太郎

 

 

 

 

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