ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[加筆修正有][敬称略]
その感想を別の参考として『季刊 映画宝庫 No9』を使って書いてみたいと思います。
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以下、春日の著作を春日著として『季刊 映画宝庫 No9』を映画宝庫で略します。
まずは『東京オリンピック』 (1965) から。
〇 『東京オリンピック』
映画『東京オリンピック』それは、その後のマイケル・ムーアの作品や『アクト・オブ・サイレンス』 (2012) 等の「原点」でもある。(注1)観ていると映画に緩急があって見所を感じるのだ。だから、公開当時に「叩かれた」のはあまりピンとこないが、当時の感覚からいえば当然なのかもしれない。何しろ依頼主は「芸術」ではなく「記録」を念頭においていたから……
映画宝庫の<オリンピック映画をみた100人の意見>の項を読み直すと河野一郎の言に端を発した一連の騒動は競技とオリンピック関係者から主に批判されている。つまり、オリンピックの感動を「追体験」できない「みたいものをみせていない」仕上がりになっているから。身内の映画関係者以外は総スカン状態で心がポッキリどころか粉々に砕ける心証すら感じられる。でも、女優の高峰秀子の発言が示すとおり「劇映画の監督にオリンピックを撮らせたらああなるに決まっている」のだから。
芸術を理解するのは自身の培った素養と教養が必要になる。だから、その反証として同じ項の欧州人の発言は、ほぼ賞賛または好意的だ。『東京オリンピック』の「芸術」を理解したのは彼等だけなのだ。
月並みな言い回しだが、日本のエリートは当時から「芸術がわかっていない」ことになる。
「みたいものをみせていない」だけでそれを否定できるのか?その問いかけを突きつけているのが、この『東京オリンピック』問題だろう。個人としては、ツライけど。
注1:ドキュメントとはただ単に「記録」ではなく「表現」ができるものとして示したのはレニー・リフェンシュタール監督『オリンピア』 (1938) 二部作で、『東京オリンピック』にも影響を与えている感もあるが、データによると競技に再現シーンがあり、また明かに演出もあり実在の映像から構築されているのではないためにそれのみでという視点からいえばやっぱり、この『東京オリンピック』だろう。
次は『犬神家の一族』について書きます。