ここでは題名を恣意的に表記します。[加筆修正有][敬称略]
注意:ここはネタバレになる可能性があります。まだ映画を観ていない方にはおススメできません。
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『シン・ゴジラ』を観ました。
シン・ゴジラ : 作品情報 - 映画.com
大傑作!
『シン・ゴジラ』新たなゴジラだけではなく、今まで「誰もみたことがない怪獣映画」を描き出した。このコジラ、かつての「水爆実験の落とし子」とか「無敵のヒーロー」とか「荒ぶる神」や他の 「何か」を連想させるものが無い。だが、そこがいい。
ただの歩く巨大な物体または歩く不条理が『シン・ゴジラ』なのだ。まさかエヴァとゴジラの魔改造がアートとして完成したみたいな感動が、怪獣映画で味わえるとは思わなかったので、びっくりだ。
前半は日本人特有の「意思決定の弱さ」を描いて後半は「粘り強さ」 を描いてまさしく日本(現実)対ゴジラ(虚構)が納得する展開をみせている。そして、これが一番に重要なのは。
ゴジラと日本人(人間)を対等に描いている。
ところだ。映画ではそこにリアリティをもたせるために多大なエネルギーを注いでいる。前半のテンポの早すぎる場面展開や早口、あの第二形態のカックン感など、その相対的な描き方はあきらかに今までの怪獣映画の定石とは違うやり方になっている。
だからクライマックスのキモはゴジラとの戦いではなく「アレをどう回避するのか?」になっている。
もちろん「〇〇〇〇線〇〇」で、あのテーマが流れるなどの “ケレン味” も忘れてはいない。
意外にもすごく絶妙なバランスで『シン・ゴジラ』は作られているのだ。
それでは「これは、怪獣映画なのか?凄く高度なシミュレーションまたは風刺劇ではないのか?」の疑問を感じる人がいるかもしれない。いや、いても当然。
もちろんこれは怪獣映画だ。怪獣が “何かの象徴” なら『シン・ゴジラ』ではゴジラとは別のモノが「怪獣というべき」部分を背負っているからだ。それは……
いちども出てこない科学者、牧悟郎こそが『シン・ゴジラ』の怪獣にあたる。日本はゴジラをとおして彼と戦っているのだ。
そして日本は辛い勝ち方をしている。
牧吾郎が背負っているもの、それは放射能で妻を失った事実。
それなのに栄華を極める大都会であり「無関心な加害者」としての東京(日本)。
そしてここが大切なところだが牧は復讐をしているのではなく、メッセージを投げかけている。
「これが、お前達が妻および、今でも苦しんでいる人々にしている事だ」
これは現在の東京(日本)とそのために見向きもされなかった人々の関係そのものだ。
もちろん、牧は「気づいてみろ」といわんばかりに対処方も残してはいる、しかも「罪の意識」を感じさせるやり方でだ。
だって、ゴジラは東京の真ん中に立っているのだから。
映画ファンならこのやり方は『劇場版パトレイバー1』の首謀者を思い出すし、動機は『天空の蜂』の首謀者を思い出すだろう。
そして、それは結局は原点である『ゴジラ』とほぼ同じだ。
『シン・ゴジラ』は怪獣映画のステージをワンランク上げたかもしれない。それともこれは自分の勝手な思い込みなのかも知れないが……
分かるのは、これから作られる怪獣映画はこれを意識せざるえないという事実だけだ。