ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
久しぶりに観ちゃった。
内容は、1890年テキサス州にある無法地帯にやって来たある男が身ぐるみを剥がされソイツ等を皆殺したのきっかけに男はロイ・ビーンと名乗り、大ファンの女優のポスターを貼って、この地に裁判所を構え判事となった。後から来た5人の無法者を助手として雇い、次々と様々な悪党を殺してゆくうちに、その無法地帯は豊かな街と変わってゆくが……な流れだ。
監督はジョン・ヒューストン。
『王になろうとした男』(1976)でも書いた通りヒューストン作品とは、基本は男の童話であり、「勝者になり損ねた者」を好んでモチーフとして使い、撮影中に試行錯誤するが、編集などのポストプロダクションはそれほどかからない監督さん。
脚本はジョン・ミリアス。
『風とライオン』(1975)でも書いたが、ミリアスはどこか子供ぽさが残る男のロマンを描く傾向がある監督さんだがココではまだ脚本さん。
そんなロイ・ビーンは何度も映像化されているのでアメリカではそれなりに名は知られている実在した人物だが、コノ作品は史実寄りではなく郷愁誘うユーモア込みのファンタジーになっている。
リアルでは無いのは、ビーンがゾッコン推しの女優をエヴァ・ガードナーが演じているが、ラストシーンの締めに登場するのだが、その姿はポスターと変わらない。歳を重ねた形跡が無いのだ。
それに、コノ作品の視点、つまり物語の語り部はビーンが皆殺しの後、判事をはじめる前に出会ったアンソニー・パーキンス演じる牧師になっている。そして、この牧師は「その後、天国で彼(ロイ・ビーン)に会わなかった」みたいな独白をしているので、ぶっちゃけ死んでいる設定らしい。
死人が天国に行かなかった悪党について語っている訳だ。
とまぁ、コノ作品はリアル寄りよりも郷愁ファンタジー。
ハッキリ言ってベタもベタ。
どれくらいベタなのか?それはビーンとヒロインのイチャイチャシーンでアンディ・ウィリアムスを入れてくるくらいにはベタ。ビーン役がポール・ニューマンなのでモロに『明日に向かって撃て!』とダブる。
でも、ヒロインと共に熊も一緒なのでちょっと違う。(今ネタぶっこみ)
公開当時の映画界の状況としては、「主人公が若者、リアル寄り、反体制」なアメリカンニューシネマが優勢な時代。
そんな時期に、トレンド・風潮とは真逆なコノ作品を打ち出したのだから、これがサム・ペキンパー監督『ワイルドバンチ』(1969)同様に「西部劇に引導を渡した」作品なのは映画ファンの間では共通認識になってはいるが、真っ向に描いた『ワイルド…』とは違うのは、差別化を図るためか、それともペキンパーへの対抗心なのかはわからないが、ココではユーモア込みのファンタジーになっている。
伝説になったのは2作品とも同じだがな。
だが、当時の批評家たちの評価もポール・ニューマンの演技は褒めても作品そのものには低評価となった。
付け足すと、脚本のミリアスもこの出来には不満だったらしい。彼が当初イメージしたのは『夕陽のガンマン』(1965)の様なレオーネ風マカロニ・ウエスタンであり、ファンタジーな郷愁よりもブラックなユーモアが濃かったモノでヒューストンの試行錯誤しながら撮るやり方もついて行けなかったらしい。
まさに、リアル『ホワイトハンターブラックハート』(1990)
この体験をきっかけにミリアスは監督への転身を考えるようになる。
しかし、確かにベタだが、さすがベテランのヒューストンなので、演出には昨今の映画みたいなベタベタにはならずにストーリーテリングが巧みで、いわば適切なベタになっていてスムーズに観れる。
まるで、バイオレンスに目覚めたフランク・キャプラみたいな出来に。
‐‐ フランク・キャプラとは初期のハリウッドの代表的な監督で理性と誠意で庶民が勝利を収める様を巧みなストーリーテリングで後に多大な影響力をもった映画監督。代表作は『或る夜の出来事』や『スミス都へ行く』、そして『素晴らしき哉、人生!』。
だから、好き者の心を掴んで今にいたる。
つまり、コノ作品も「愛された」映画なのだ。
もちろん俺も愛している。
CATVで鑑賞。
監督:ジョン・ヒューストン
脚本:ジョン・ミリアス
制作:フランク・カフェイ、ジョン・フォアマン、ポール・ニューマン
音楽:モーリス・ジャール
撮影監督:リチャード・ムーア
編集:ヒュー・S・ファウラー
1972・PG・120分
データと画像はIMDBより