ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略][加筆修正有]
『ゴースト・イン・ザ・シェル』。クライマックスにアレのCGIを見せてくれれただけでも自分としては充分に満足はできたし、物語は『攻殻機動隊』入門といったつくりになっていて面白いので、どうこう言うつもりも無かったが制作会社に中国の会社が関わっているのをきっかけに、昔『GHOST IN THE SHELL』を観た後に感じたことを思い出したので、今回はそれに『ゴースト・イン・ザ・シェル』の部分をちょっと足して駄文を書いてみたいと……
これからは『ゴースト・イン・ザ・シェル』を『ゴースト』と記して、『GHOST IN THE SHELL』を『GHOST』として記します。
簡単にいうと『ゴースト』と『GHOST』で描かれる幽霊の違いと、本質としては共通しているのではないのか?のところの部分で自分が考えている(いたこと)ことを書いてみたいと考えます。そして今回は『GHOST』に幾分か冷たい書き方をします。
こちらもお願いします。
最初は『GHOST』から。人形使いの正体とそいつが素子に何を求めるのか?そして最終的にはどうなるのか?を観終われば、見た目は電脳空間の装飾をしてはいるが、その本質は異類婚姻譚の変形だと気がつくはずだ。そして、この映画の哲学な部分現実と電脳(ネット)の区別はつくのか?境目は何なのか?という哲学的だと評価されている部分は、現世と常世 --映画を観ていたのなら意味は分かるはずーー の部分に変換されて、実はけっこう古典的な物語だ。
だから『GHOST』の本当の評価はインテリしか楽しめない事柄を電脳空間というガジェット挿入することで誰にでも楽しめるようにした。だと思う。なにより最高のフォロワーである『マトリックス』で「仮想現実では精神の強さが実際の強さに比例する」が提示されていることからもそれは分かる。
次に『ゴースト』だ。少佐が自身の本当の姿を知るきっかけと、そこで体験することや本当の自分に気がつく部分は転生、リーインカーネション --これも映画を観ていたのなら意味は分かるはずーー に変換されて分かる。
つまり『ゴースト』と『GHOST』が描く幽霊とは自分自身であると共に変化をもたらす何か。であるのが見えてくる。
正直、強引なのは自覚してはいるが、そうゆう視点からみれば『ゴースト』も『GHOST』も同じものを語っているともいえるのではないか。
そして『攻殻機動隊』は過去に『GHOST』も含めて4回も映像化されていて、どれもが原作どおりに映像化されたことはない。だから、ここに『ゴースト』が加わってもいいのではないのか。と自分は考えるのである。